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文トレDAY39 7-夜逃げの後。

生野の家の生活が始まった。
私は高2、妹が中3、弟が中2。
高校は校区内だったので転校せず高校に通えたが、妹と弟は生野区の荒れた中学校に転校しなければならなかった。東住吉の家に変わる前も母が学校側に交渉して、引っ越すまでの期間、西成から東住吉の中学校まで電車で通学していた。その当時はそこまで考えがおよばなかったが、自分だけずるいことをしたという反省の気持ちがふつふつと湧いてきた。

父は、生野区の町工場で従業員として働き、母は近くの和菓子屋にパートに出た。生涯初の「鍵っ子」・・・という歳でもないが。

人生において「夜逃げ」はできれば避けたい選択肢だ。それを経験したことで心に大きな傷を負う。

と、思ったが、我が家は数ヶ月で元の明るい家庭に戻っていた。
私の頭の中はお花畑だったのかも知れない。いまでもシリアスな極めて緊張を強いられる場面では、あえてそれを避けてしまう癖がある。結果に対して責任が持てない。あるいは周りに人に悪い影響を与えてしまうのではないか?そのトリガーボタンを押すことが怖いのだ。

生野に引っ越したときネガティブな感情に陥らなかったのは、両親が子供たちにそういう配慮をしたことによるものだと思う。
そのときの両親の心中を聞いたことはないのだが、今振り返ると涙がながれる。父が数年後ぽつりと「あの時は、死のうと思った」ということを聞いた。よくそんな精神状態も私たち子供にいやな顔ひとつをせず、日々普通に接し、育てることができたのか?感謝の念がわいてきた。

そんな両親の苦渋を知らなかった高校生の私は、夏と冬のバイトで稼いだお金を家にいれようともせず、趣味のオーディオに注ぎ込んだ。妹や弟はこの放蕩兄をどう見ていたのか?両親はこんなわたしになぜ文句を言わなかったのか?

高校を卒業し、私は中堅のメーカーの就職した。
両親は喜んでくれた。そのメーカーは、消火器では日本ではトップシェアを持つ会社だった。倒産を経験した両親からすれば「親方日の丸」に近い存在に見えたのに違いない。
就職した経緯は『文トレDAY33 1-高校から大学』で書いた。
もし、この生野の家で両親の苦渋を受け止めていたら・・・・
その後の私の人生は大きく変わっていたに違いない。

家を買う
大学3回生のときまたしても転機が訪れる。
これには、母の存在が大きく影響している。
母は徳島の出身、父と結婚した時は同じ西成に住んでいた。西成の家から歩いて500メートルほどのところに母の実家があった。子供のころよく歩いて母方のおばあちゃんの家に遊びに行ったものだ。母の実家も商売をしていた。町の木工所だった。陳列ケースを製造して文具店や、文具メーカーに販売していた、筆記用具や、図面を描く道具がたくさんあってワクワクした。

倒産、夜逃げ、生野での生活。家計を支えてきたのは、母の気丈な力があったからだと思う。

母にはこんなエピソードがある。
私は母が泣いているのを2度しか見たことがない。
1度目は、小学校の時、夜中に父と母が口論しているとき。
2度目は、父の葬儀、それもだれもいなくなった葬儀の席で独りで目頭をおさえていたのを遠目に見た覚えがある。

またあるときミナミのデパートに母と出かけた。うっかりお金を落としてそれを拾っておうとすると、横からきたある男がその金を持っていかれた。母は、お金を奪い返すと男の足に平手打ちを喰らわした。

50歳代の義理の妹との口論で一歩も引かない。80歳を超える母からこんなエネルギーがあるのかと思わせた。

そんな母が家探しを始めた。
数日後。
「家、買ってきた」。
まるでデパート地下でお惣菜を買ってきたように言う。
呆気にとられるより嬉しかった。

25歳の冬、堺市に引っ越す。
人生3度目の住居である。





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