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文トレDAY52 20-始動

「おはようございます」
奄美大島で買った「黒糖かりんとう」のお土産を手に3日ぶりに会社に出勤する。
「おはようございます」
いつもと変わらない会社の状況に逆に戸惑ってしまう。
所長と例の喫茶店に行く。
無言で飲み慣れたコーヒーを飲む。
所長が口を開いた。

「で! どうすることにした?」

「す、すいません、これからも継続させていただきます。」
「ご心配かけてすいませんでした。」
頭が自然に下がった。

身もこころもスッキリした。
追加でトーストを頼み、二人で食べた。



大阪国際空港、伊丹。
人間の記憶は、風景に刻み込まれているのだろうか?
でも、普段は思い出すことはない。

「風景や雰囲気のダイヤル」と「気持ちのダイヤル」が一致したとき、記憶の扉のダイヤル錠が開くのかもしれない。

幼少の頃、父のパナマ出張を家族とともにここに見送りに来たことを急に思い出した。まだ住居が西成にあったころの話だ。理由は不明だが、母に新しい服を着せてもらい、車で空港に向かった。親戚のおじさんたちもいた。空港ビルの屋上の金網フェンスから、父が乗ったパンナムの飛行機が飛び立つのを見た記憶がよみがえる。
昔、海外に行く父の気持ちと。今、私が海外に行こうとしている気持ちがシンクロしたのだろうか?

「お客様のお呼び出しをいたします。サンフランシスコ行き897便をご予約の渡部様、至急最寄りの空港カウンターまでお立ち寄りください。」

空港カウンターに行って渡部と名乗る。
東京本社の岡角さんからの電話だった。
ラスベガスでステージコンサルタントが打ち合わせと劇場の現地視察をアレンジしてくれることが決まったことの連絡だった。現地に入ったら連絡するように電話番号を教えてくれた。
この当時、携帯電話は今ほど普及していなかったので、緊急の場合こんな連絡方法しかなった。


大きなプロジェクトが始動していた。T社大阪営業所始まって以来の大型案件だ。ショーはショーでもアメリカのラスベガスのステージライブショーができる施設と同等の規模の施設を日本の三重県に作り、そこで新しいステージライブショー開催する計画だった。

この話が来た時。まったくリアリティが湧かなかった。新地のニューハーフのショーハウスだと想像できたが、ラスベガスのステージライブショーは想像できなかった。

想像できない初めての出来事が今起ころうと目の前にある時。幼い時はそれ恐怖に感じ、逃げ出したい衝動に襲われる。だが、それを乗り越えたとき、その警戒していた恐怖心はスッと消えうせ、楽しみに変わる。
はじめて起こる出来事があるたびのその恐怖を乗り越え、乗り越えた先には楽しみがあることを覚える。

ヘソの下に毛が生える年代になると、そんな新鮮な気持ちで新しいこれから起こる出来事を捉えることが出来なくなってしまうのだ。

このプロジェクトの話を聞いたとき、私は年甲斐もなく、幼い時のように少し恐怖に感じた、そしてそれは、楽しみに変わり。今、私はその只中にいる。

幸せな気持ちはきっとこういう状態のことを言うのだと思う。しかし、当時の私は自分が今、「幸せ」であることを認めるのが恥ずかしかった。

今回のアメリカツアーはラスベガスで有名なステージライブショーを視察。その後、フロリダで開催中の照明の展示会を見学。ニューヨークに移動し別の日本から来たチームと合流、ステージライティング設計の打ち合わせ。それからシカゴ経由でマディソンにある照明のメーカーの会社を見学。というスケジュールだ。
14泊15日。
初のアメリカ旅行だったが、オフを入れる時間的余裕はなかった。

今ならWeb Meeting が出来て便利だ。しかし、生は圧倒的の情報量が違う。生で人会う感覚や、実際にその空間に身を置き、そこで感じた雰囲気の記憶は一生ものの個人財産だ。そしてこの財産には税金はかからない。

私はその一瞬一瞬をこころに刻みけるように大切にしながら、このエキサイティングなツアーを楽しんだ。

楽しい時間は、あっという間の過ぎる。ツアー最終日の夜、ロスアンゼルス。ツアーに参加したスタッフで最後の食事を楽しむ。
ツアーに参加した。メンバーを紹介したい。

川村さんはこのプロジェクトの音響設備設計兼、通訳者。この当時は、クライアントの子会社に在籍していて、クライアントの施設の音響設備のフォローと新規音響設備の設計をしていた。後に独立し、自分の会社を持つかたわら、音響の専門誌のライターもこなす。

岡角さんはテクニカルマネージャー兼、通訳者。T社の創業者のひとり
のちに、ステージ照明の社長となる。

田口さんは、元照明のメーカーで照明用のコントロールシステムのハードとソフトを設計、開発の経験がある、このプロジェクトは、日本初なので前例のない問題点にぶち当たる危険性がある。限られた時間の中で最適な答えを出すためには、豊富な経験が必要である。

ケントさんはこのプロジェクトでお会いした当初は、まだフリーランスで照明のコーディネーターの仕事をしていた。外人アーティストの日本ツアーでは、ケントさんがアーティスト側について、アーティストの意向を日本語で照明会社や舞台関係者につたえる仕事をしていた。そのまえは、業界大手の舞台照明会社の在籍していた。日本生まれ。
このプロジェクトは途中からの参画だったが、なくてはならないコーディネート役となった。

私にとって、このケントさんとの出会いはこれからの人生を大きく変えることになるのだが、この時はそんなことを思いもしなかった。








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