【政治】選挙は人気投票でいい
今回はこちらの馬の眼さんのnoteを読んで、私が思っていることを書いていこうと思います。
おそらく方向性としては私は馬の眼さんと同じ方向を向いている。でも微妙な観察の違いから正反対の言葉が出てきてしまったので、その辺を説明していきます。
選挙は人気投票でいい
私は選挙というのは人気投票で良いと思っています。むしろ本質は人気投票以外の何者でもなく、ちゃんと人気投票をやれ、と。
世間一般で言われているマスコミの知名度だけが反映されることを肯定している訳ではなく、政治と芸能界ではそもそも人気の尺度って違うよね?という意味で。
今の選挙がおかしいのは、選挙が人気投票になっているからではなくて、政治と芸能を同じ尺度でごちゃまぜにして考えているからなんじゃないかなーと思うんですよね。政治と芸能、やろうとすることの目的が違うんだから、当然人気の尺度って違って当たり前でしょう。
では、どうして「人気投票ではない選挙」が選挙をおかしくしてしまうのでしょうか。
「誰が勝つか」を当てようとする選挙
馬の眼さんとは正反対の言葉を並べているものの、先に述べたように私はおおむね彼とは同じ方向を向いています。なので今度は同じ方向を向いている部分の話。
私も有権者はバカじゃないと思っていて、むしろ考えすぎて賢く立ち回ろうとした結果が裏目に出ているのだと思います。
ただ、騙されまいとするときに取る行動は馬の眼さんとは違うように見ているかなー。守れない公約に騙されまいと情報をシャットダウンした結果、少しだけ知っている方に流されるのではなく、どうせ負ける方に投票してしまうと自分の票が無駄になったと感じてしまって、考えたり情報を集めたりした結果、「戦略的投票」の真似事をしようとして、実際には戦略的投票に徹することもできずに、それとは違う何かをやってしまっているのではないか、と感じています。
戦略的投票というのは、要は「死に票の回避」です。自分が投票した候補者が当選した場合、当然次の選挙で意見を聞きに来る、自分に説得に来るのが現段階で権力を持った人である可能性が高くなります。もちろん、ほとんどの人のところにはそんなものは来ないでしょう。しかし、自分が所属している組織や会社、年齢層や階層などを候補者に意識させることができる。もしくはさせる可能性を少しだけ引き上げることができる。たとえ自分のところには来なくても、間接的に自分と繋がった偉い人のところに何かお伺いを立てに来るはずだ、という期待感があります。
これは割と複雑で高度な下心の持ち方だけれども、その辺まではかなり多くの有権者は表明せずに算段していると思います。
これがまず一つ、表の論理です。
非言語コミュニケーションの選挙
さらにもう一つ、この行動を強化している社会装置があると私は思っています。
それが公営ギャンブル。
競馬とか競輪とか競艇のアレです。
条件として
・他に民主的手続きを経験する場がない
という前提が必要になるのですが、考えてみて下さい。日常生活で他に何かに投票をして社会的に実効性のある結果が得られるという経験がありますか?
もちろん「私はギャンブルなんかやらない」という人もいるでしょう。でも、あれだけ観客やお金を払う人がいるのだから、「そのようなものがある」ということを知らない日本人はほとんどいないのではないでしょうか。どういう(表向きの)仕組みかも。
そして、それぞれのギャンブルで買われるものは投票券ですよ。
他に使われるシチュエーションが無い投票という言葉を使って、どれが勝つかを当てさせて、それにご褒美を与える。こういうオペラント条件付けを繰り返されて、不意に同じ投票という言葉を使う行動をするターンがやって来たらどうしますか?
動物としての人間は他で行った投票と同じことをします。同じものを連想して、同じ結果を期待します。
これは「有権者がバカだから」ではないんです。むしろ(自己が有利になるように)考えるほど誘導されていきます。だって、それが強化学習なんですもの。
本当に好きだと思うものに振れ
私はこの民主主義を無力化させる調教を終わらせるのは、
・みんなが好きな候補に投票する
ことだと思っています。
政治をちゃんと考える。そしてちゃんと良識で判断する。
利害と論理で人を丸め込もうとする人は、人が気分で動こうとするのを嫌がります。好きな気持ちで動くことを嫌います。読めなくて誘導できないから。
心理学は個人の心に関しては「読めない」という結論しか導き出せません。操作ができるのは集団の利害だけなんです。
政治とは良識を反映させるもの
さてもう一つ、投票に行かない「普通の人」が頭が良いからこそやってしまう勘違いと錯覚についても少しだけ触れます。
投票に行かない無党派層と、保守系を支持する人たちが持っている認知の歪みとして「政治=権力闘争」という錯覚があります。
もちろん、政治の場に権力闘争は否応なく発生してしまいます。権力闘争と無縁の政治の場など存在しません。
が、それでも権力闘争と政治は同じではないのです。
ここの誤解は宇都宮健二氏と山本太郎氏の討論でも、山本太郎氏の今後の活動でもいいので、どこかで断ち切っておかなければならない誤解だと思います。
ただの純粋な権力闘争だと思うから、良識とかけ離れた判断を「高度な政治的判断」だと錯覚してしまう。念仏のように自分には分からないブラックボックスが存在する方がありがたいものだと思ってしまう。
好きなものや良いと思うものに投票をするような「程度の低いこと」はしたくないと思ってしまう。
だから奴隷をやめようぜ
今まで書いてきたこと、とりとめもないようだけれども、全部私は一つのことしか言っていないつもりなんです。
フレーミングで騙されて、いつまでも奴隷でいるのやめようか、ということなんです。
本当はみんなに奴隷って何かを学んで欲しい。学んで考えて欲しい。
今後はそのための文章もnoteに書いていくつもりだけれども、今回の都知事選は東京都民なら秘密投票でそっと奴隷をやめられるきっかけになると思う。
まとめ
・選挙は人気投票でいい
・政治の人気は政治の尺度で決めよう
・誰が勝つかではなく、何が良いかを考えよう
・そっと奴隷をやめよう
補足:
このnoteが「勝てるかどうか」で棄権を選んでしまう人の論理をまさに描いていたのでリンクを貼ります。
実は私もこれを読んでたまげた。
たまげたけど、若い棄権者の感覚としては、投票をしてしまうとその陣営に入ったことになってしまうのではないかという心理も働いているのかなぁと思いを馳せる。どうなのだろう?
「普通選挙・秘密選挙・自由選挙」という三原則は今、ちゃんと丁寧に説明されているのかな?という部分は気になった。
もしかして、今回の都知事選で誰か一人ぐらい、公約の遙か手前にあるこの三原則を説明したら、ハッとする人が現れたりするんだろうか?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?