美術館で会った人だろ、アンタ。 6
テート美術館展
ターナー、印象派から現代へ 光
しっかり寒いねこの頃、
もうデブ症をこぢらせてね
ネタ集めも億劫になっちゃうよ。
でもまぁ行ってきたんだ
中之島美術館。
ぢつは芦雪展も行ってきたんだが
なんか御託並べる気にならんかったなぁ。
蕭白とかだとヤル気満々なんだがね。
相性ってやつだよ、きっと。
そういやこないだ芸文で神野美加の
「ラッパと娘」を聴いた。
ArrowJazzOrchestraがバックの。
あれはイイもんだったなぁ。
で、タイトルに戻る。
光だよ。
カラバッジョっていう反逆者がいてね。
神の光を盗み出して地上にもたらした。
神の怒りにふれた彼は不遇のまま倒れ
王権の衰えるまで禁術とされていた。
市民階級の勃興とともに
ネーデルラントのレンブラントが
禁術を解き放ち(神は死んだのだ)
のちに使徒が世界にこれを広めた。
そんなファンタジーを妄想していたね。
テート美術館は1889年にSirHenryTateの収集品をもとに
1790年以降に生まれた英国人作家の作品
の収蔵を企図して設立されたとのこと。
1916年お上の沙汰により
外国人による近代・現代美術品も
コレクションに加えられたとのこと。
まぁ古代の洞窟画を例に引くまでもなく
絵画というやつは線描から始まる。
画材もなく技法も手にしていないと
表現が無茶くそ限定されてしまうのは
ふつーに当然だよね。
だもんでテートのコレクションで
表現技法の深化を見るってのは
実際妥当であるということなんだろうね。
ただね今回の展覧会でラファエル前派のコレクションの
立ち位置はあたしにゃ理解できんかった。
いや好きなんすよ。
ホルマンハルト、バーンジョーンズ、ハンター、ミレイ。
ロマンチックぢゃないっすか?
だけどね、なんかノイズが入ったみたいな感じ。
修行が足りんってことすかねぇ。やれやれ。
タイトル通り展示はターナー周辺から始まる。
光へのアプローチをこの辺から説いていく。
日本あたりだと朦朧体とか言って揶揄されんだろうね。
あっ、タイトルがらみの左上2点ね。
どう思う?
あたしには光ぢゃなくて、airぢゃないかと思うんだがね。
なぜ輪郭線を放棄して朦朧体に至ったか。
技法の深化によってairの表現が可能になった。
いや、気が向いたんでやってみたかもだけど。
でも作品の前に立つと先ず感じるのはairなんだよね。
この後に見せられるのが
ラファエル前派なんだけど。
神話(または物語)への回帰?輪郭線の復権?
なんだかめんどくさいね。
朦朧体(便宜的に言ってるだけ)へのアンチテーゼっすかね。
ターナーの光と陰の関する研究もいろいろありまして。
朦朧体でairの表現を考えると光の重要性に気付く。
妄想がはかどってしまいますな。
風魔法でairを表現しても、
真っ暗闇では何も見えないのだよね。
airの表現のために光の存在に開眼する。
印象派の出番だよね。
左下端っこはピサロなんだけど。
ここでも光というものは
まだまだ天然物で所与のものだったんだね。
つまり表現されているのはairすなわち風魔法であるとね。
あとハマスホイなんだけどね(左下2番目)。
室内の光ってことなんだけど。
そうですかナカの人はそうお考えで。
展示していただけたのは有難い。
(ポストカード買った、額も。)
ただこの人は、「何者かの不在」を表現するひと
だと思っているんで、イヤハヤナントモ。
anyway.
このへんでひとつのbreak throughが
発生するのだね。
電球の発明&普及でござる。
くわえて光を定着する技術、写真術もあるます。
光魔法単独の探求&調査が可能になったのだね。
といってもこの辺のtrialは
あんまし面白くなかった。
ハナヤ勘兵衛の作品があったのが
地味に嬉しかった。
だからバチェラー(タイトル横)、セッジリー(右上)の作品とかどうなんだろうね。
そんなわけで?リヒター(右下)作品は
面白いよね。
光には粒子と波の2面性があるんだけど、
光魔法を施して流体化した光を表現している。
なにはともあれ妄想ネタが沢山仕込めて愉快だった。
この後、たこ焼き酒場で、
なめろうとたこ焼きをアテにして
ホッピーと東京バイスをやっつけて
ご機嫌で帰宅したのですよ。
E.N.D.