好きを言葉にする?
一昨年も坂上秋成さんの小説を読んで影響されてnoteを書いたっけ。https://note.com/natusiiko/n/n5ea37523ebe8
今回もまだ読んでいる途中だけど、私の思いを書いてみたくなった。
作中でナナキ(主人公男性の彼女)がパートナーに対して『好き』という言葉をお互い一々求めなくても、動く(行動)ということが大事、というような事を言っていて、それ少し分かるなと感じた。
うちの夫は私に『好き』とかそれに準ずる言葉を言わない。結婚当初は冗談か本気か「しい子がいないと生きていけない」と言ってくれていた事もあったけれど、それを今「あんなこと言ってくれてたよね」なんて言おうものなら全力で否定して逆のことを言って私を揶揄っていじめるんだろうな。
まぁそれはさておき、そういう夫だから私は夫が好きの言葉を言ってくれなくても態度や行動で私に好意を持ってくれているのを感じられたら良いと思っている。
そのために私は美味しい料理を頑張り、名もない家事で痒いところに手を届かせ、コーヒーを所望されたら「やったぜ、夫のしてほしことがやってあげられる」とばかりに喜んでコーヒーを淹れる。
そういう積み重ねで「シャンプー追加してくれていた、しい子好き」「お弁当作ってくれるしい子好き」「帰省する際の荷物を準備してくれるしい子好き」「いつでも喜んでコーヒー淹れてくれるしい子好き」みたいになってくれたら嬉しいな、などと想像している。
なので家事をしない夫に文句はない。私が夫に喜んでもらえるかもしれない機会なので、名もない家事などは貴重なチャンスでもある。
そして夫は言葉では私に「好き」は言わないが「ありがとう」は言う。そして結構夫は私に甘いところがあり、そういうところで私は「愛されているかも」を実感している。
今回の坂上秋成さんの小説『泥の香り』では女性の方が昭和の男性のように「そんなの(好きという感情)言わなくても態度(行動)で分かるだろう」という考え方なのだ。主人公は「言葉にしてくれなきゃわかないわよ、そんなの」とは言わないが、自分の自信の無さと、相手に喜んでほしいからこそ、相手の言葉を聞きたいと考えている。それも分かる。
どっちの意見もそうだなと思うんだよね、この小説読んでると。どっちが正しい、とかじゃないんだよなぁと。そして好きとは信じることでもあるんだなと。
にしてもこの小説、ところどころが深い。
未読の方はぜひに。