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「伝えたいことなんて何もない」の根っこはここに。ミクロという私の素質。
なんだかもやもやしていることがあった。
これは役に立つだろうな
その視点があるといいだろうな
と思って話すのだけれど
なんだか苦しいのだ。いつもそうだ。
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仕事でこれからの保育に大切になることについて
アドバイスを求められて
「これが大事だよ」ってことを話すんだけど
相手はちゃんと聞いてくれているのだけど
なんだかしっくりこない。
伝えている内容も
相手に聞かれていることとずれてはいない。
その考え方が大きく広がったら
きっといいだろうな、そう思う。
なのに。
なんでこんなにしっくりこないんだろう。
それはずっとずっと、かすかに感じていること。
かすかな違和感。かすかな苦しさ。
例えば大きな怒りだとか大きな失敗とかだったら
「ここがちがうんだな」というところが
くっきりと浮き上がってくる。
でも、どこにも「ちがうところ」を
見つけられない。
まちがっていないから、合っているからこそ
この違和感や苦しさが
どこからやってきているのかを
見つけられないでいる。
「これが大事だから!」と
大きな声で言って耳を塞いでしまえば
ねじ伏せられそうなくらいのかすかな違和感。
でも、そうすることは、できなくて。
時計の針の音が気になるように
冷蔵庫のモーター音が気になるように
かすかだけれど、ずっとある。
目を背けるな、と、言ってくる。
それは突然やってきた。
「そうか、合っているからだ」とハッとした。
そのかすかな違和感、苦しさは
「正しい」からこそ、起きたものだった。
「合っているのに」苦しいことは
「合っているから」苦しいのだった。
なにこれ、この言葉遊びみたいなの。
たくさんのこどもを見てきて
いろんな園を体験してきて
たくさん学んできて
「これからはこれが大切になるだろうな」
ということは、くっきりと持っている。
そしてそれは、間違ってはないと思う。
私の中の違和感は
それが「広く伝えられるためのもの」
という前提にあったのだった。
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11月なのにまだ緑なのも多い
物事を知っていく時に
「マクロから行く人と、ミクロから行く人」
がいるのだと
以前の師匠が話していた。
広く広く数多くに触れ
ひとつの真実を見つけるマクロ
ひとつに深く深く触れ
ひとつの真実を見つけるミクロ
「あなたはミクロだね」
そう師匠に言われたを思い出した。
そう、私は、ミクロだったのだ。
「広く」の世界は
私にはフィットしていなかった
それが違和感の原因だった。
よく育児本に載っているような
こどもの発達は「マクロ」にあたる。
たくさんのこどもたちを観察して
平均値を出したものがそれなのだ。
「1歳になったら歩く」というのは
たくさんのデータの中にある
「たくさんはここ」という統計学。
「たくさんの例を見て」「数字で示す」
多くの人が信頼する後ろ盾となる。
マクロは信頼性と信憑性がある。
でも私はそれができない。
平均ということは、単純に言うと
少ない数の10ヶ月で歩く子や
1歳をだいぶ過ぎてから歩く子もいる。
私はそれを、置いていけないのだ。
「1歳になったら歩く」というのは
統計としたら正しい表現で
真実なのかもしれない。
でも、私は10ヶ月で歩いた子は
「10ヶ月で歩いた」という真実
1歳2ヶ月で歩いた子には
「1歳2ヶ月で歩いた」という真実がある
「ひとりひとりの真実がある」
というところから、物事を見てる。
「歩く」はひとつの例としてで
すべてにおいて、そこから見てる。
それがミクロの視点なのだ。
だから「広く伝えること」を求められて
それに対して答えることはできたけれど
どうしても「そうでない子」を思ってしまう。
大枠的には正しい(真実だ)けれど
それが正しくない(真実ではない)子もいる
その矛盾を見過ごせないのだ。
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ミクロの証拠と言われていた
それは、昔働いていた保育園で
痛烈に感じたことだった。
その園はとても良い保育をしていて
職員は皆その保育に自負と自信があった。
「良いことをしている」と思っていた。
確かに、とても良い保育だった。
私もそれに惹かれて勤めていたし。
でも、ずっと苦しかった。
「正しさ」に縛られて。
「私たちは正しいことをしている!」
その自負は
正しさを主張する時に、同時に
その正しさに当てはまらないものを責めている。
言葉では責めていなくても。
「そうでないもの」を下に見て
「未熟なもの」として扱い
「わかっていない」と嘆き
「あなたは正しくない」と暗に伝える。
私は、それがずっと辛かった。
正しさに苦しくなってしまった私は
その「良い保育」に当てはまらなかった子に
シンパシーを感じていた。
分かる、分かるよ。つらいよね。
健気についていこうとするその子たちより先に
(だって他に手がないものね)
私の方が音を上げてしまった。
とても、続けられなかった。
「正しさ」は、時に暴力だ。
目に見えるように殴ったりしないからこそ、余計に。
「あなたはまちがっている」と心を殴り倒し
「私はまちがっている」と
自分自身を殴るようにもなってしまう。
私はどうしても
「みんなが持つことのできる真実」が苦しい。
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昔から、集団が苦手だった。
どうしても大多数に入れず
少数派になってしまう。
今まで発信をする時に
「伝える」という表現が
どうしてもしっくりこなかったのは
それが広くに向けてだからだった。
もちろん、広く伝えるということは
とても大事で有効なことだ。
それでどれだけの人が救われることか。
憧れて、憧れて、でもできなかった。
私はミクロ。
どうしても「私のこと」しか分からない。
自分が持っている「私の真実」を
みんなのものとして広く伝えることはできない。
だから、ここでつぶやくしかできないのだ。
「私の真実は、こうでした」と。
そして、もうひとつ
ミクロの私にできること。
「あなたの真実はなんですか?」と問うことだ。
どんな答えも、そのこどもの真実として
見ることができる。
それだけは、ずっと磨いてきた。
それでいい、もうそれでいい。
私はミクロ。ミクロは私の素質だから。
引目を感じず、活かしていけばいいだけだ。
「広く大きく」なんて目指さずに
ひとりひとりの真実を見ていく。
それでいい。