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【玄米王漫遊記】vol.3 宮沢賢治と玄米食

玄米王米穀店は、お米の専門家である「五ツ星お米マイスター」のいるお店です。
お米が大好きな私たちがお届けする【玄米王漫遊記】ぜひご覧ください。

【玄米王漫遊記】vol.3 宮澤賢治と玄米食

東北出身の店主も子供のころにお世話になった「けんじワールド(岩手県雫石、2013年閉館)」が思い出され、学校の図書館で読んだ「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」、「よだかの星」といった宮沢賢治の世界も散りばめつつ、流れるプールやウォータースライダーなどがあり、とても魅力的な施設だったことを思い出します。さて、皆さんは宮沢賢治の本を読んだことがあるでしょうか?
宮沢賢治の代表作のひとつでもあり、没後に発見された遺作のメモである「雨ニモマケズ」という詩の中で玄米が登場するのです。
そこで今回は、「雨ニモマケズ」の玄米食を紹介したいと思います。

「雨ニモマケズ」

雨ニモマケズ(雨にも負けず)
風ニモマケズ(風にも負けず)
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ(雪にも夏の暑さにも負けない)
丈夫ナカラダヲモチ(丈夫な体を持ち)
慾ハナク(欲はなく)
決シテ瞋ラズ(決して怒らず)
イツモシヅカニワラッテヰル(いつも静かに笑っている)
一日ニ玄米四合ト(1日に玄米を4合と)
味噌ト少シノ野菜ヲタベ(味噌汁と少しの野菜を食べ)

アラユルコトヲ(あらゆることを)
ジブンヲカンジョウニ入レズニ(自分を勘定に入れずに)
ヨクミキキシワカリ(よく見聞きし分かり)
ソシテワスレズ(そして忘れず)
野原ノ松ノ林ノ䕃ノ(野原の松林の陰の)
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ(小さな萱葺の小屋に住んで)
東ニ病気ノコドモアレバ(東に病気の子供がいれば)
行ッテ看病シテヤリ(行って看病をしてやり)
西ニツカレタ母アレバ(西に疲れた母がいれば)
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ(行ってその稲の束を背負ってあげ)
南ニ死ニサウナ人アレバ(南に死にそうな人がいれば)
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ(行って怖がらなくても大丈夫だと励まし)
北ニケンクヮヤソショウガアレバ(北に喧嘩や訴訟があれば)
ツマラナイカラヤメロトイヒ(つまらないからやめろと言い)
ヒデリノトキハナミダヲナガシ(日照りの時には涙を流し)
サムサノナツハオロオロアルキ(寒い夏はおろおろ歩き)
ミンナニデクノボートヨバレ(みんなにデクノボウと呼ばれ)
ホメラレモセズ(褒められもせず)
クニモサレズ(苦にもされず)
サウイフモノニ(そういう者に)
ワタシハナリタイ(私はなりたい)

「雨ニモマケズ/宮沢賢治」 より

宮沢賢治の食事

一日ニ玄米四合ト(1日に玄米を4合と)
味噌ト少シノ野菜ヲタベ(味噌汁と少しの野菜を食べ)

熱心な仏教徒であったと言われる宮沢賢治は、菜食主義者であったことでも有名です。1日に玄米4合ということはお茶碗8杯分くらい食べていたことになりますが、戦前までの日本人の主なカロリー摂取源はコメでしたから、このくらい食べていたのも頷けます。
この食事の栄養については、栄養学の観点から十分な栄養が摂れているという方もいれば、玄米だけではタンパク質や必須アミノ酸が不足するという方もいます。東北なので、野菜はお漬物であった可能性もあり、塩分過多のようにも思えます。
どちらにしても、美味しいものがたくさん溢れている飽食の時代にある現代では、私たちがこれだけの玄米を1日に食べることは難しく、宮沢賢治のような粗食を継続することもストレスになってしまいそうです。
そうするとやはり、玄米だけでなく、野菜や海藻なども含めたバランスの良い食事を心がけることが必要ということになります。

おわりに
ベジタリアンだったと言われる宮沢賢治は、殺生がつらいというメッセージの物語が多いと感じます。明治時代以降、牛鍋などこれまで殺生しなかった生き物を食用とするようになった時代背景からも、その時代を生きた人の様々な葛藤があったのかもしれませんね。

参考:「雨ニモマケズ/宮沢賢治」

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