vol.1 人の心を助けるやさしさとは?〜やさしさを育むために必要な「4つのちから」~
本題に入る前に、執筆の意図や方向性、コンセプト記事をご覧くださいますと、より内容をお楽しみいただけるかと思います。
※以前に当記事の内容をご覧くださった方々へ
こちらのシリーズは、以前にアップしていた「やさしさを育むために必要な 4つのちから」とほぼ同じ内容ですが、読みやすさを考慮して分割したものになります。最終的にまとめ編として、以前の記事をそのまま再投稿する予定です。
自己犠牲の在り方と、それが必要な理由
ひとことで「やさしさ」と言っても、様々な捉え方があると思います。
上記の、「はじめにお伝えしたいこと」の執筆の意図でもお伝えしたとおり、思想や考えは各々の世界観に基づいていて、さらにそれをどの角度から見ているか?によって正しさは変わります。だから、すべての人にとっての正解を語るのは不可能であると考えています。
ですが、ひとつの軸をつくって、自分なりの正解を語ることは可能です。
「やさしさとは?」という漠然としたテーマではありますが、そのような視点でこの先をお読みください。
「自己犠牲」という言葉に対して、抵抗感を示すかたは少なくないと思っています。
特に現代では、人様に献身的に尽くすよりも、まずは自分自身を大切にすることを勧めるかたが多くいる印象です。
「自分に優しくできたぶんだけ、他者に優しくなれる」
おそらくこういった理由で、まずは自分を…というお話になり、それが定着してきたのではないかと思います。自分に余裕があるからこそ他者にも気持ちをかけることができるというのは、確かにその通りだと感じます。
ここだけを見ると、特に問題は起こらないように思います。
それなのに、私があえて「建設的で意図的な自己犠牲」の必要性を訴えているのは、次のような理由があります。
自分に優しくすることと他者を思いやること、これらが同席していることが「やさしさ」の本質であると考えています。しかし最近、あちこちで見聞きする情報によって、あることを心配しているのです。
「自分に優しくすることの意味が、自分のこと『だけ』を考えていればいいという解釈に変わってきていないだろうか」
現代の傾向と懸念していること
具体的には、次ような情報が飛び込んでくる機会が増えた気がします。
(統計を取るなどはしておらず、あくまでも話の大枠を説明するための感覚的な解釈に過ぎませんので、不確かなものが苦手なかたはご容赦ください)
・人の気持ちなんて考えてもわからないのだから、自分がどうしたいかだけでいい
・面倒な人や困った人のことなんて放っておけばいいし、離れるべき
・思ったことを言えないのは良くない、自己主張できるほうが素晴らしい
こういったものにふれると、心がザワザワするのです。
繰り返しになりますが、思想や考えは人それぞれに正解が違うため、他者の信じているものを否定する意図はありません。
ただ、あくまでも私の感覚として、次のように感じるのです。
そしてこれらのことは、当然、自分に向くこともあります。
わかってほしい時に「あなたのことなんて知らないわ」と突っぱねられたり、どうにも困難な状況下で人に面倒をかけてしまう時に冷たくあしらわれたり、こちらの話に耳を傾けてもらえず自分の意見ばかり押し付けられると、つらい気持ちにならないでしょうか。
なんだか心が乾いて、ひび割れてしまいそうです。
理解の目が向けられず歩み寄られないことは、やさしさとは程遠いもののように感じます。されるほうはもちろんのこと、するほうも巡りめぐってしんどい想いをすることになりそうです。そのため、この部分を改めて考えていきたいと思いました。
理解の目を向けることの大切さ
今回は、大枠部分になりますが「私なりのやさしさの定義」を共有させていただきました。これは、ひとことで言ってしまえば「理解の目を向けること」であり、もっと言うと「理解するために歩み寄ること」だと思っています。
歩み寄る過程で、しんどいことや面倒なことがあるかもしれません。
なぜそこまでして、他者に気持ちをかける必要があるのでしょうか。この部分に「人の心を助けるやさしさ」のヒントがあるはずです。
上記をベースに、やさしさを育むために必要だと思うことを積み重ねていくイメージで、私なりの考えをお伝えしていきますので、よろしければ続きの内容もご覧になってくださいね。