なんで、易を好きになったんだろう
昨晩、clubhouseでおしゃべりをしました。
易経について。
clubhouseはオフレコが鉄則。
だから、お話ししなかったことを書いてみようと思う。
私は、生きているのがとても苦しかった時期がある。当時、親友に、長いトンネルの中にいて光が見えないと言った記憶がある。
私たちは、この世界に生まれいでて、丸ごとそのまま受け入れられるべき存在だと思う。
でも、その理想だけで終わることは、残念ながらほとんどない。
親、兄弟、友人、先生、学校、同僚、上司、会社、社会、国、環境…
それは、私という存在に、容赦なく突きつける。ここで生きていくために必要なことを。
そしてある時、意識する。
私、このままではいけないんだ。って。
丸ごと受け入れられなかった。
その傷は、想像以上に深く、長く私たちを苦しめる。
私は私のままでは受け入れられないという記憶が、身体の奥深くに住み着いて離れない。その存在に、気づくことさえないままに。
ある日、私は360度パノラマの大自然の中に佇んでいた。
森の木々や、川の水、雄大な山や、足もとに転がる鉱石、広い空、ふんわりと浮かぶ雲、鳥のさえずりに、混ざり合う人々の楽しそうな声。
それら全てが、私にこう言っていた。
「そのままで、この世界だ」って。
易で立ち現れる卦は、8つの自然の象徴を2つずつ組み合わせて、64通りのパターンの中にあるやり取りや、関係性を感受し読み解いていく。
その解釈は、読み手の世界観のうちに、無限の広がりをみせる。
たった数行の言葉、たった6本の線からなるコード。この限りある世界に、無限に広がる宇宙が閉じ込められる。
目の前に現れた易の卦は、ただのコード。現象は現象としてただそこに現れただけ。
360度パノラマの大自然も、ただそこに、存在していたに過ぎない。
でも、私には確かに聴こえたの。
そのままで、この世界だ。って。
思い出してみる。
この世界をより良く生きるための教えに、私を苦しめる意図なんてなかったはずだ。
いや、もしあったとしても、そんなことは取るに足らないことだった。
お互い様に傷つけながら、お互いを通して、立ち現れる現象に自ら気づきを得ていく。
もう一度、「そのままでこの世界」であることを、思い出すために。
なんで易を好きになったんだろう。
易がなかったら、私はまだ、誰にも受け入れられず、誰にも理解されず、たった一人で生きているみたいな顔をして、傲慢と自意識の中に閉じ込められていたんじゃないかなぁ。
いやいや、今だって、そんな気分になったりする。
でも、その度に目の前の自然が、易の叡智を通して、「そのままでこの世界だ」って伝えてくれる。
自覚できる、意識できる、それで十分。少しだけ前を向いて、生かしてくれてありがとうって言える。
だから私は、易に出逢えて良かったと、思っています。