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わからなくても、いい。

今年に入ってまだひと月も経っていませんが、私の中で変化がありました。

ときどき、どこからともなく急に頭の中にあらわれる言葉。記憶のかぎり誰かから聞いたわけでも本で読んだわけでもない。自分の言葉のようで自分の言葉じゃないような。今年のはじめ、そうやって手に入れた一つの言葉を手帳に書き記し、気まぐれなのか、本物なのか、注意深く観察していました。諦めのようにも、絶望のようにも受け取れるその言葉の真意はなんだろう。

そして今、受け取った言葉が私にとってとても大切なものだと腑に落ちたので、ここに記しておきたいと思います。

今になって気づいたことだけど、2019年私は一つのことに苦しんでいました。いや、よく考えてみれば、人生の大半、このことにエネルギーを費やしていたんじゃないかと思うのです。それは、「人とわかり合いたい」ということ。

わかり合いたいという気持ちは、人の根源的な欲求だと思います。ことさら自分にとって大切な存在であればあるほどに。例えば私なら母。母とは物心ついたときからずっとわかり合いたいと思ってきた。だからこそ、私は小さな頃から、母がすること言うことの受け入れ難いことも、わかろうとしてきた。そう・・・。母を理解しようと「努めて」きたのです。

頭ではこう考えています。たとえどんなに大切な人であっても、身近な人であっても、血のつながりがある人であっても、人のことは結局わからないんだって。でも、わかろうとすることはできるんだから、たとえわからなくても、わかろうとしていきたい・・・って。ずっと、ずっと、そう思ってきました。

昨年、ある人との間でちょっとしたいざこざがありました。そのときに私は、言葉の限りに自分の考えや気持ちを伝えました。何度も、一生懸命に。その人が大事だから。わかり合いたいと思っていたから。

それから年が明け、私がどこからか受け取った一つの言葉がこれでした。「無理に相手をわかろうとすることもなく、無理に相手にわかってもらおうともしない」

とても大切でとても恐ろしい事実に気づきました。

わかり合うって、とても聞こえがいい。でも、わかり合いたいと思うとき、必ずそこにはもう一つの大きな欲求が付き従っている。「わかり合いたい」には、「あなたをわかりたい」と「あなたにわかって欲しい」がワンセット。わかり合いたいと言うときには、必ずこの二つを同時に求めることになる。

相手をわかろうとするときの主体は、私。では、私をわかろうとするのは・・・私ではなく、主体は相手だ。権利は相手側にある。

なんてことだろう。わかり合いたいと言いながら、同時に「わかって欲しい」と暗に叫んでいたなんて。

私は、わかり合いたいと思うことが悪いと言いたいのではない。知らずにやってしまっているという恐ろしさをとても感じているのです。世の中の多くの争いは、わかり合いたいの願いから始まっている。わかり合いたいと意見を交わし、わかり合いたいと交渉し、わかり合いたいと確認し合う。そして密かに、こちら側をわかって欲しいと訴えかける。うまくいかなければそれが溝になり、溝が深まれば争いになる。

わかり合いたいのにうまくいかない・・・の原因は、もしかしたらここにあるんじゃないだろうか。わかり合いたいという美徳に、わかって欲しいがあることを、多くの場合意識できていない。

「無理に相手をわかろうとすることもなく、無理に相手にわかってもらおうともしない」この言葉は、私にとって諦めではなかったのです。

ふと浮かぶ大切な人の顔。あなたとわかり合いたいと、強く思ってきた大切な人の顔を浮かべ、私は空に言ってみた。「私は、あなたを、わからなくてもいい。」って。

心はとても穏やかだった。優しくて静かだった。「わからなくてもいい」って言ったとき、「わかって欲しい」の気持ちが消えていた。

きっとこれからも、私たちはわかり合いたいと願うだろう。それは、自分と異なる人がいる意味を内包していて、他者とわかり合いたいから知恵を絞り、言葉を尽くし、ときに争いながらも、「わかりたい」と「わかって欲しい」の狭間で生きていく。

でもいつか、本当に心から「わからなくてもいい。それでもあなたが大切だ。」って言えたとき、相反する真実のように「わかり合う」ということが、そこに立ち現れるのかもしれないなぁって、感じるのです。

なんだかここまで長くかかってしまった。わかり合うチャレンジは、これまでの人生でけっこうやってきたんじゃないかと思う。だからこそ、ここに至ったとも言えるんだけど。

やっと少し、自分も相手も解放することができる。私は今年、無理にわかろうとも、わかってもらおうともしない道を、歩いてみています。



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