性のゆらぎから「Q」に至るまで

 小学生の頃、私はなにかの間違いで「女の子」に生まれたのだと思った。きっと今は「女の子」だけど、いつか私は「女の子」では無くなるのではないか。「男の子」の体になるか、男女どちらでもない体になるか。とにかく「女の子」の体でなくなるのではないかと変に確信していた。

 しかし、私の意に反して成長する体は「女」そのものだった。女の「子」から大人になっただけ。私が思っていたものと違う姿に成長した。いや、親や教師や世間からすれば今の私の姿こそが自然で、予定調和なのだ。私の予想がはずれただけ。

 ただ勝手に期待しただけ。
 ただ予定通りに順調に成長しただけ。
 それだけ。

 
 慣れ親しんだ私の体。そういうものだと思って生きてきた。制服のスカートが嫌だと思ったことは意外とない。スカートは楽だ。特にトイレが。女の体にもいいことはあるもんだ。
 高校生のある日、浴室で鏡に映る自分の体を眺めた。何の変哲もない、昨日までと変わらない体。自分の体の中心に二つの膨らみがあることに気付いた。ある、なあ。なぜ? なぜこんなものが私に付いているんだ? 合成を疑った。触る。ふにふにと柔らかいそれが、私の乳房であると分かる。手も頭も分かっているのだが、自分の目がそれを真であると捉えなかった。まるで他人の乳房を揉んでいるかのようだ。自分の手によって変形する柔球が、自分のものではないような気がした。
 あの夜の感覚が忘れられない。
 なぜここにあるんだ。
 引っ張っても取れない。
 切り離せない。

 
 毎月欠かさず来る生理にも苦しんだ。私の生理痛は重い方だろう。気絶こそしないが、起き上がれないことがある。この苦しみが男の体には生じないことが信じられない。今も。
 血が引いたような冷たい足先の感覚を知らずに生きていけるのか。羨ましいな。不公平だな。ずるいな。ずるい。

 女の体を引っ提げて、思春期を終えた。大学では私服で過ごすことが多い。スカートを好んで履いていた。大学デビューでメイクを楽しみだした。あの夜のことは気の所為だ。何かのバグだったのだ。私は女と思って生活していた。

 20歳になった。
 お酒が飲めるようになると、同級生の空気が男と女に分断するのを嗅ぎ取った。飲み会の代金を「いいよ。俺が多く払うよ」と値引きされて、安く飲食できることが増えた。私はそれが、酷く変だと思った。「なぜ?」と問うと、「君は女の子だから」と返ってきた。納得はできなかった。同い年なのだから、アルバイトの収入にそこまで差はないだろう。なのに性別で奢る・奢られるの関係が生まれるのはなぜ? そしてなぜ私が奢られる側なの?

 夜遅くまで飲み会をするのは大学生の青春の1ページだろう。大体男友達が私を送ってくれる。「女の子が酔った状態で夜遅くに出歩いていたら危険だから」と。なぜ? 私は「酔った状態で夜遅くに出歩いていたら危険」な生き物なのか? 連れ添っている男友達は「酔った状態で夜遅くに出歩いていたら危険」な生き物ではない? 私とこの友人の違いはどこにあるんだろう。育った末の変体にあるのか? 確かに体の構造は違うが、それだけではないのか?

 仲の良い男友達に、無防備すぎると言われた。下着の一部が服から見えてしまっていたらしい。「ああ、ごめん」と一応返した。でも、男たちは上半身裸で泳ぐだろう。あれは恥ずかしくないのか? 私などは下着の一部が見えているだけで指摘されるというのに。

 私が抱くこれらの疑問は、同性である他の女友達も共通して持っているものだろうと思っていた。しかし、女友達に上記のようなことを吐露してみても共感は得られなかった。みんな、「女だからね」と1ミリも疑っていない様子だ。自分は女で、それ以外の可能性を全く疑っていない。どうして? どうして納得できるの?
 私の疑問は、よくフェミニズムを啓発する人々が発している問いとは性質が異なる。彼女らは、「女に生まれただけでなぜ差別されるのか、差別が許されるのか」と訴えているのに対し、私は純粋に、「なぜ私が女の扱いをされているのかがピンとこない」だけなのだ。それだけなのだ。

 世界が、男という生き物と女という生き物に二分化されているように見える。父は男。母は女。あの人は男。この人は女。全ての人類、社会が二種類のいずれかに属していて、その中で私はどちらにも混ざれなかった。私は、女の体を持っているから女?……でも女扱いはしっくりこないし馴染めない。じゃあ男?……ああダメだ。体の構造が違いすぎる。青か赤か、二分化した世界で、どちらにも染まれない私。例えるならば黄色。青でも赤でもない。かけ離れている。人々が、社会が、私には遠く感じた。

「男でも女でもない」と検索した。こんな感覚、分かる人なんかいないよね。「検索結果:なし」という画面表示を予想していた。しかし、出た。「Xジェンダー」という概念。自分を男とも女とも自認しないという概念。私は安堵した。一人じゃなかった。調べるとたくさんのジェンダーがヒットした。ノンバイナリー、クエスチョニング、アンドロジナス、ジェンダーフルイド…… 青と赤だけじゃなかった。緑も、黄色も、紫も、黒も、白ももっとたくさんのグラデーションの色があった。世界にはたくさんのジェンダーがあると知った。そして自分が変な奴だというのではないということ。寧ろ性のあり方は人それぞれ違うということを知ったのだった。

 さて、調べたは良いもののその無数のジェンダーの中で、私は一体どこに属せるのか。それからの懊悩は、青と赤だけの世界にいた時よりも私を苦しめた。
 私は、一体どの名前を冠せばいいの? 感覚としてはノンバイナリーが近い気がする。でも、ノンバイナリーを自認するというのは、自分の中の女の自我を否定することだと思うと踏み出せなかった。長年考えて分かったことだが、私の中にも女の自我は存在するのだ。その自我が悲しい顔をするので、ノンバイナリーではないのだろうと思う。
 次にジェンダーフルイド。日によって性自認が変わるというものだが、確かにこれも近い。女が強い時も男が強い時も、無の時も両方の時もある気がするから。でも、ジェンダーフルイドと名乗るからには毎日変わらないといけない・意識していないといけないのでは? と頭を悩ませた。それは窮屈な生き方になるだろう。

 私は悩むことに疲れた。自分のアイデンティティはどこにあるのかと探す度に、どこにもないと打ちのめされた。見て見ぬふりをした宿り木である「クエスチョニング」の概念。性自認が分からない・考え中というセクシュアリティだが、これを選ぶのは敗北だと思った。降参したのと同じだと考えていたからだ。どうしても認めたくなかった。

 しかし、私は最終的にこの「クエスチョニング」を自認している。これは敗北でも降参でもない。熟考した末の納得したセクシュアリティだ。分からないということは、すべての可能性を含んでいるということだ。私は、性別という窮屈な枠組みに自分を抑え込まないほうが生きやすいと感じた。どこかに属すのではなく、制約のない自分でいることが快適だと気付いたのだ。今後完全に女になるかもしれない可能性、ノンバイナリーになるかもしれない可能性、男になるかもしれない可能性……それらすべての可能性を握っていたい。私にとって「クエスチョニング」という言葉は、そういう決意の表れだ。

 時は流れて、寿嶺二のオタクになった。クエスチョニングの私は、嶺ちゃんに「マイガール」と呼ばれることに初めは抵抗があった。私はガールではないのに。かといって「マイボーイ」でもない、と振り出しに戻った気持ちでいたのが正直なところだ。
 しかし、尊い推しが何度も愛おしそうに私に向かって「マイガール!」と言ってくるので、「私、女でもいいかも〜!!」と思えるようになった。嶺ちゃんによって、私の中の女の自我が覚醒した。時々「マイボーイ!」と呼ばれて、男の自我も覚醒した。「男の俺のことも忘れないでいてくれたんだね〜!!」と嬉しくなった。私は嶺ちゃんのそういうところが大好き。結果、私は女でも男でもいい。もちろんどちらでなくてもいいという、本当の意味の「性別に縛られない私」になれたのだった。

 結論、推しの力は偉大だなって話でした。

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