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はっきり負けたから好きでいられる。

お兄ちゃんに連れられてグラウンドに初めて行ったのが小学校一年生のとき。

せっかく親に買ってもらったランドセルは三年生の頃には野球バッグに変わっていた。(もちろん先生には怒られたが)

生まれてから18歳までの人生を教えて下さいと言われたら野球しか出てこない。残念ながら高校の三年間、学校の授業の記憶がほぼない。

今になって勉強をしてこなかったことはかなり後悔してるのだが、だからといって野球に全てを捧げてきたことを後悔したことはない。

24時間野球漬けだったと思う。

下にあるゴミを拾うときもいちいちゴロをキャッチするように捕球の型を意識して拾う。(何度女子に笑われたことか)
バットを抱き枕にして寝たこともあるが、翌朝、顔の側面が大変なことになった。

今も、野球に全てを捧げる高校球児が全国にたくさんいる。ハタからみると「何もそこまでしなくても」と言われるようなことでも平気で出来てしまう。

つくづく「甲子園」は不思議な場所だなと思う。

その先にプロ野球の道もある。もちろん全員がプロを意識してるわけではないと思う。だけど甲子園はおそらく、「出たい?」と聞けば大多数が出たいと答えるだろう。

そんな甲子園だが夏も中止が決まった。

どんな言葉をかけていいのか分からない。

本当に大事な目標が挑戦すらさせてもらえずに無くなってしまうことがこんなにも残酷なことだとは思わなかった。

ある指導者が「せめて負けさせてやりたかった」と球児に伝えたそうだ。
こんなに優しい言葉をかけれる指導者がいるのかと胸を打たれた。

私も「負けた」からこそ野球を好きでいられる人間の1人だからである。

最後の夏の日。

グラウンドで膝から崩れ落ちて泣きじゃくったあの瞬間に、野球が好きだと自覚したし、負けたことによって素直に、ライバルに頑張って欲しいと思えた。

甲子園に出るために、朝から晩まで練習に明け暮れて、これ以上はもう出来ないと思うところまでやり切ったのに、それでも勝てなかった。

それまでは、同い年の選手に対して憧れの眼差しを向けたり、特定の選手をすごいなぁと思ったことがなかった。

彼らを倒さなければ甲子園に出れないからだ。実際そんな余裕1ミリもなかった。

そして最後の夏、負けた瞬間に、はじめてこれまでの野球生活に「納得」できた。

最後の打席、ボール打った時の感触がいまだに手に残っている。もう10年も経つのに、、、笑
(力負けのどん詰まりだったのだ。)

多分その「納得」が私の野球キャリアの終点だったのだろう。

まだまだやれると思う人は大学や社会人の道へと進む。私の場合は、わたし自身が完全に同意した上でライバルたちに「あきらめさせられた」というべきか。

「自負」とは自分の才能や知識、業績などに自信と誇りを持つこと

らしい。

野球が大好きであると「自負」しているが、これがまさか自分で負けを認めることによって生まれるとは思いもしなかった。

まだ野球をはじめたばかりで、ユニフォームがダボダボのちびっ子野球選手から、プロの野球選手までたくさんのプレーヤーがいる。

私は野球をしている彼等、彼女等が好きである。

この「自負」はあの最後の夏に、野球が私にもたらしてくれた最高の贈り物だと思っている。

プロ野球選手ってやっぱすげぇ!!と思えたり、知らない小学生がキャッチボールしてるのを見てなぜか泣きそうになったり、バッティングセンターで汗を流すサラリーマンを見て勝手に同情したり。

ほんとは、

勝つことが楽しくて、喜んでくれるのが楽しくて、だから野球が大好きで。

そうなる予定だったのだが、、、、(笑)

プロ野球選手は本当にすごい。野球をやればやるほど、知れば知るほどその凄さと尊さがわかる。

私は野球を仕事には出来なかったけれど、今の仕事にも野球みたく全力投球している。

そして、心のどこかでまた、はっきり負ける日がくることを楽しみに待ち望んでいる。

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