サスティナブルでエコとか、どの口が言う。
自分は怒っているのだと気づいたここ数日。そうです、非常に怒っています。
今年の冬は厳しく、って何が厳しいって、ほら、あれ、ですよ、あれ。こちらは統制が厳しく、Googleさんもあるテーマに関してはキャッチしないという有様。これを日本でお読みの方には想像がつかないかもしれませんが、この国のある層の人々にとっては『ヤマ』とも言える冬でしょう。
携帯は持っていないよね、と確認をしあい、散歩をしながら話をするなんてザラになっております。アフガニスタンとか、シリアのドキュメンタリー映画でこんなシーンあったな、と笑ってしまいそうですが、悲しいかな、これは現実。『あと、3、4ヶ月耐えよう、頑張ろう。』とすっかり額に皺が増えた友人が呟く。社会が意図的に分断され、制約に囲まれる生活。この分断は歴史上、人民をコントロールするためによく使われる手であり、何度も本で読んだり、日本でさえも多少見聞きはしていたはず。でも、学ぶことと、実際に体験するということには雲泥の差があり、自分が渦中にいるとなかなか気づかないものです。言論の自由が未来にあるとすれば、私はまっすぐに、それこそ曇りなき眼で、『分断とはね、』と説明できるばーさんになる自信がある。
あと、3、4ヶ月。この数字もどこから友人が引っ張り出してきたのかは知らない。いついつまで、と言われると、人はなぜか頑張れる気がするのでしょう。
私はフリーランスなので、現実に直面することなく、冷静を保ち生きて参りましたが、そろそろ堪忍袋の尾が切れそう。いや、待てよ、この怒りようは、ひょっとして、もう切れたのかもしれない。
どうやら悟りを開いておられる方々は、物事を静観し、非常に落ち着いておられるようですが、私はまだまだ修行が足りないので、怒りがフツフツと湧いてきます。この怒りをアウトプットせにゃいかんな、と久しぶりにnoteを開き、こそこそと毒を吐いているわけですが、はっきり言って、このような行為は世の皆様に迷惑極まりない。
note内の自己表現とかビジネスとかの記事群が、どうでもいいくらい薄っぺらく感じ、広告は全て冗談のよう。きっと、私はずっと怒っていたのでしょう。少なくとも、あの生物と無生物の間のモノが騒がれるようになる前から、ずっと。その直前までこちらの世界では、若者が毎週金曜日に地球を救えとか言って、道路で座り込みをしておりました。大人もしたり顔でデモに参加、でもちゃっかり休暇には飛行機で海外旅行。そんな矛盾が成立する世界でした。そう、あの時、このムーブメントの次に何が来るのだろう、と職業柄、頭を捻ったものですが、まさかこんな大イベントが来るとは。とほほ。
『なぜなぜ?』と子供の時から不思議に思っていた疑問は、いつも大人に封じ込められ、学校では『深く考えてはいけない』と教え込まれ、知らず知らずのうちに社会や大人に不信感が付き纏いました。自分が大人になっても、『なぜなぜ』病は続き、ない頭で考えても途方に暮れるだけの毎日。資本主義社会では全く相手にされず、最後は神頼みで精神世界に答えを探しても、1ミリも瞑想できない私。人間界の落ちこぼれじゃないかよ、と諦めた瞬間に、私はとにかく、(今ではすっかり流行りになっている)好きなことだけをする、と決めたのでした。
おいおい、せめて好きなことをさせろよ、邪魔すんなよ、いい加減にしろよ、と私は怒っているのかもしれない。今まで一応ルールに則って大人しく従順にしてきたじゃねーかよ、文句は言っていたけども。プンプン。とにかく、これは怒りだと気づいてから落ち着かない。誰に対して怒ってるのかも、正直わからない。(薄々、これって自分に対して怒ってるんじゃなかろうか、と直感で気づいてはいるものの、今のところガン無視。)夜になると目が冴えて、どうしたもんかなと部屋を彷徨いていると、どこからかやってきた文庫本『キッチン』に目が止まったのでございます。吉本ばなな、だ。懐かしい。
本の中は、あの頃の日本の空気がムンムン。そこにあるのは、平和な世界。描かれる世界の端っこまで、しつこいくらい平和。初めて『キッチン』を読んだ若かりし頃、登場人物の生活が眩しく、それが嫌に鼻について、『けっ』と本を閉じたのだけれど、まさか今頃この本に癒されるとは。中華料理をたらふく食べた、という後書きも読み終わって、そうだ、こんな世界もあったなと、何だかホッとして、深い眠りについたのであります。