覚えていたのは(短編小説)
島本 吉木(しまもと よしき)
志島 楓(しじま かえで)
「久しぶり。」
その声に、耳を傾ける。
雨音が上から降り注ぐ、バス停の中で。
この田舎のバス停は、慣れたものなのに、その声は、どこか異質に感じた。
「どこかで、お会いしましたか?」
声に答えた後で、顔を向ける。
覚えていたのは、忘れてはいけない記憶だった。
「俺、この島を出ていく。」
高校三年生の夏、家族の前で、そう宣言する。
誰も、止めはしない。
むしろそうするのが普通だ。
内心、誰しもがそう思っている。
その中で反対するのは、あいつだけだった。
「えっ、やだ。」
「こら!よそ様の家庭に口出ししない!」
唯一声を上げた女の子を、容赦なく女性がひっぱたく。
「ごめんね、吉くん、気にしないで。」
「ねぇ、吉兄、私も連れていってよ。」
「ほんとにこの子は!」
「まぁまぁ…」
再び叩かれそうになった女の子を、母さんが庇った。
父さんとおじさんは、やれやれといった様子でそれを眺めている。
田舎の狭いコミュニティだから、なのだろう。
家族会議であるはずなのに、隣の一家も総出で俺の話を聞きに来ている。
その一人が彼女、楓だ。
昔から一緒に暮らしているせいか、隣の家族というよりは、親戚のような感覚に近い。
だからこそ、こういった家族会議にも参加している。
唯一、嫌だったことといえば、俺のそういう系の本が見つかったときの家族会議にも参加されたことだ。
嫌な思い出すぎる。
「で、大学は決まったのか?」
「うん。四国にある大学なら、余裕で入れるだろうって。」
「遠いわね…」
そう呟く母さんにつられ、おばさんもため息をつく。
別に今生の別れってわけでもない。
長期休みには帰ってくるつもりでもいる。
ただ、そういうわけじゃない、ということも、自分自身で理解している。
何か、言葉にはできない、気持ちのようなものがある。
「ひとまず、勉強を頑張りなさい。すべては受かってからだ。」
「うん。」
父さんは一度、島を出たことがある。
俺と似たような感じだが、結局は戻ってきた。
母さんがこの島にいたからなのか、それとも、元々戻ってくるつもりだったのか、深くは聞いたことはなかった。
親のそういう話を直接聞くのも、何だかおかしい感じもしたからだ。
話が区切りを迎えたことを察したのか、みんな散り散りに席を外す。
楓だけが、不服そうに俺を見つめる。
「知らなかった。」
「別に言う必要はなかっただろ。」
「お隣さんなのに?」
「お隣さんだからだ。」
楓は三つ下、今は中学三年生だ。高校までは島にあるが、大学は外にしかない。
仕事につかなければ、外に出るのは誰しもがわかっている。
楓もそのはずなのだが、ちゃんと言葉にしなかったのに苛立っているのだろう。
「連れてってよ。」
「だめだ。お前はまだ中学生だろ?高校までは島で通う、昔から言われてるだろ。」
「そうだけどさぁ…」
楓は不貞腐れてその場で寝転ぶ。
人の家という自覚は、当の昔に捨てている。
俺もそうだからだ。
お互い、距離が近すぎた。
だからこそ、こういったことは言語化した方が良かったのではないかと、楓の態度を見て思った。
思ったところで、もうどうしようもないのだが。
「飯は?」
「いい。帰る。」
楓はすっと立ち上がると、縁側に放り出されていたサンダルに足を通し、隣へと走っていった。
塀も何もない、地続きの隣。
こんな距離感だからこそ、何かが普通とは狂うのだろう。
そんなことを考えながらも、受験勉強に本腰を入れなくてはいけないと、自分の頭を切り替えた。
冬。
雪の降る中、学校の教室で連絡を待つ。
残った生徒は数名で、俺を含め、今か今かと落ち着きがない。
数十分に一回、先生が教室を訪れ、一人、また一人と、別室へ連れていく。
結果がどうであれ、この教室に戻ってくることはない。
次に会うのは、いつになるかもわからない。
下手すれば、もう二度と会えないかもしれない。
そんな最後の時間のはずなのに、皆、自分の未来しか見えていない。
それは俺も含めたことなので、特段、騒ぐ気にはならない。
「島本。」
名前を呼ばれる。
遂に自分の番だ。
ドキドキはしている。
でも、確信もしている。
先生に続き、少し歩いた空き教室に案内される。
一角に、机と椅子で囲われた、取り調べ室のような場所がある。
ある意味、問い質されるという意味では、間違ってはいないかもしれない。
促されるまま、椅子に腰を下ろす。
先生がファイルから、一枚の紙を取り出す。
「合格だ。」
「ありがとうございます。」
「何だ、やけにあっさりしてるな。」
「それは、受かるって先生が言っていたので。」
「ははっ、違いない。」
合格証明書、とでかでかと書かれたその紙を受け取ると、軽くその後の話をし、部屋を後にした。
雪がかなり積もっているせいか、誰も、他の人を待っていたりなどしない。
皆、すぐに家に帰る。
寂しくないといえば、きっと嘘になるかもしれない。
でも、この島に戻ってこれば、きっと会えると、どこかで思っている自分もいる。
「帰るか。」
ぽつりと、玄関脇に居座っている雪だるまに告げるように吐き、家へと歩き出した。
「準備できたか?」
「うん。」
「気を付けてね。定期的に、連絡はするのよ。」
「分かってるよ、母さん。」
「元気でな。」
「体には気を付けてね。」
「ありがとうございます、おじさん、おばさん。」
全員に見送られ、父さんの車に乗り込む。
港から、昼に出港する船で、この島を出る。
夏から決心していたことだが、いざとなると、不安はある。
ただ、一人でも、それなりにできなければ、何もできない。
それはある意味では、大人になる、という事なのかもしれない。
「楓は?」
「…」
窓から顔を覗かせ、おじさん達に尋ねるが、答えを持ち合わせていないらしい。
あの夏の日から、どうも、俺は嫌われてしまったらしい。
顔を合わせることはあるし、俺がいない間や勉強で忙しいタイミングで、父さんと母さんとは話していた。
何を話していたのか、結果、俺は嫌われているのか、その辺りは二人ともお茶を濁すだけだったために、最後まで、何も分からないままだった。
楓の部屋の方に目をやる。
カーテンは閉まりきって、中に人がいるかもわからない。
仕方のないことかと、自分に言い聞かせる。
家族ではない、お隣さんだ。
妹のようであったけど、妹ではない。
そういう微妙な、田舎の中での関係性だ。
煮え切らない思いを抱えながら、前を向く。
「いいのか?」
「いいよ。どうせ長期休みには帰ってくるし、その時にはきっと忘れてるでしょ。」
その言葉に、父さんがエンジンをかける。
港へと、車が動き出す。
港には、同じように島を後にする幾人かが、同じように家族に送り届けてもらい、最後の、といっても、何度も言うが、今生の別れではない、最後のお見送りに来ている。
「気を付けてな。」
「うん。行ってきます。」
父さんに別れを告げ、その人の集まりに混じる。
船に乗ろうと荷物を持ち上げた手を、誰かが掴んだ。
「吉兄。」
「楓!?お前、部屋にいたんじゃ…」
驚く俺を引き寄せ、楓が、楓の口が、俺に触れる。
突然のことに、荷物を掴んだ手の力が抜ける。
同時に、少し慌てて楓を引き離す。
「おまっ…」
「待ってる。待ってるから。」
楓はそのまま、振り返ることなく、人の合間を縫って、港から離れていった。
突然の出来事過ぎて、頭の処理が追いつかない。
おじさんもおばさんも、きっと楓がここにいることを知らなかったのだろう。
呆気に取られていると、船の方から声がかかる。
「皆さん、そろそろ出発しますので、行く方は乗ってください!」
大きな声に突き動かされ、荷物を抱え、船に乗る。
父さんは最後までこちらを見ている。
そして、おそらくそれに乗って帰ることを待つ、少し離れたところにいる楓も。
ろくな言葉も渡せないまま、何とも言えない心のまま、俺は、この島を後にした。
「今年は帰ってこられるの?」
「ちょっと仕事が忙しくて…年末には帰る。」
母さんからの電話をそこそこに、仕事へと戻る。
あれからしばらく、というより、ここに来てから、島へは戻っていない。
最初の頃は、長期休みに戻ろうと決めてはいたが、バイトや勉強が思った以上にきつく、それに加えてサークルなり何なりが重なり、結局、この年になっても、一回も島に帰ることができていない。
いや、ただの言い訳だろう。
あの生き辛い島に、もう戻りたくないだけだ。
理由は忘れてしまった。
生き辛いと思っていたことさえ、本当にそうだったかどうかさえ、追われる日々にかき消されてしまった。
大学を出て、この場所で仕事を探し、気付けばもう30を迎えている。
父さんと母さんには連絡してはいる。
ただ、帰れないと告げると、父さんは昔の自分を重ねて納得してくれるが、母さんは寂しそうに言葉を詰まらせているのが毎回わかる。
申し訳ないとは思うが、そう休んでもいられない。
そんな大人に、いつの間にかなってしまっていた。
「先輩!これなんですけど…」
「あぁ、今行く。」
順調に進む毎日を、順調に進むようにするだけで、こんなに疲れるものなのかと、そう思うようになってきた。
当たり前の毎日が、ふとした時に、当たり前じゃなくなる恐怖から、逃れられなくなってきた。
「島本さん、お客さんからお電話です。」
「後で折り返すように伝えてください。」
「承知しました。」
何が幸せか、そんなことを考えている場合でもない。
そんなことを考えるよりも、手を動かさなければいけない。
次第にこれが当たり前になり、止まることが怖くなった。
あの島で、どうやって過ごしていただろうか。
何も考えず、過ごしていた子供時代の自分は、何処へいってしまったのだろうか。
ただひたすらに、無意味に頭が回る。
自分が何重にも重なる。
自分が何だったのか、何をしたかったのか、何になりたかったのか、もうわからない。
「先輩、顔、真っ青ですよ?」
「えっ?」
その一言で、我に返った。
瞬間、頭が回った。
いや、視界が回った。
真下目掛けて。
「久しぶりだなぁ…」
島へと向かう船で、ある程度の荷物を抱えて揺られている。
一週間前、俺は職場で倒れた。
医者にかかったが、どうやら過労らしい。
全然問題ないと言い放ち、仕事をしようとしたが、医者と上司から止められた。
一か月の休職を言い渡されてしまい、手持ち無沙汰になった俺は、両親にそのことを連絡し、島に戻ってゆっくりしてはどうかと言われた。
いつからか忘れていた潮の匂いと、船の揺れ。
目の前に見える、懐かしいはずである島の姿は、どこか、変わっているように見えた。
「そろそろつきますよ。」
若い船長がそう告げる。
出戻りなのか、はたまた、本州の人だろうか、細かいことを気にするのを一旦止め、島へと降りる準備を整える。
島に近付くにつれ、船の速度は緩やかに落ちていく。
それと同時に、妙な雲もついてきたせいか、停泊する頃には、ぽつぽつと、雨が降り出していた。
「ありがとうございます。」
「お兄さん、迎えは?」
「大丈夫かと思って、ないです…バスに乗って帰ろうかと。」
「そうかい。」
船長は少し心配した様子だったが、自分も帰らなければならないのだろう、紐を解くと、足早に来た道を戻っていった。
小雨の中、見慣れたバス停へと歩き出す。
あの頃からそうだったのか、時間が経ったからなのか、バス停はギリギリ雨を避けれる程度の屋根が確保されているだけの、錆びれた場所だった。
「あー、あの人が心配してたのはこれか…」
時刻表を見れば、ついさっきバスが出たばかりで、次は約一時間後だった。
昔から本数は少ないとは思ってはいたが、久しぶりに経験すると、やはりとんでもなく田舎だったのだと、外を知った今は、強く感じる。
仕方がないと諦め、雨がそれほど当たっていないであろう場所に、腰を下ろす。
こんなに静かな時間は、いつぶりだろうか。
外を眺めることは、ここ数年、あっただろうか。
疲れてしまった俺の頭は、考えることを放棄し、感じることを優先する。
荷物の上に乗せた手に、横から入ってきた雨が触れる。
冷たいはずなのに、何だか、ほっとする。
「久しぶり。」
誰かが声をかけてくる。
バス停の、少し離れた場所から、傘を持った誰かが。
放棄した頭は、鈍っているせいか、情景反射的に答えてしまった。
「どこかで、お会いしましたか?」
言った後で、顔を上げる。
傘の向こうの顔はまだ見えない。
ただ、女性という事だけは見てとれた。
「忘れるなんて、酷いね、吉兄。」
傘の向こうの君は、どんな顔だったのか、正直、覚えていない。