知ることと夢
小学校の時の夢なんやった?
友人Bとこんな話になった。
コロナ後の影響からか閑散とした回転寿司屋で、僕はガリをつまみながら言った。
俺はプロ野球選手!
中2まで本気でなろうと思ってたよ!
思ったよりも大きな声が出た。
なんで中2までなん?中3は?
Bが聞いた。
中2で自分の身長に見込みがないことが分かって
諦めた。
この時の予言は不幸にも的中した。現に、22歳に至るまで身長自虐ネタを言い続けている。
へ〜
Bが言った。
このたわいもない会話の中で、僕は過去の記憶を遡っていた。
そういえばプロ野球を目指していたあの頃よりも、頭がおかしくなるくらい熱中したものはあっただろうか?
なかった。なかったというか、逆にあの頃は異常なくらい夢を追い求めていたのかもしれない。本気でなるにはどうしたらいいかずっと考え、毎晩寝る前に自分がプロ野球選手になっている所を想像して寝ていた。
なぜ、突然その情熱は失われたのだろう。
なぜ、あの時のような夢が持てないのだろう。
知ったからだろう。限界値を、自分の能力の伸び代を、上には上がいることを、
そして知る情報が多くなればなるほど、夢を持つことから遠ざかっていく。
この情報化社会、誰しもが毎日新たな情報と向き合う現代。聞きたくないことも川の水のように入っては抜けていく。かと言って情報を逐一更新しなくては、時流に乗り遅れた原始人と化してしまう。
世の中が便利になる一方、人々の夢や情熱が減少していく感覚がなんとなくある。
時にはデジタル機器を一切身につけず、山にでも篭る時間が必要かもしれない。
いや、今は夏だ海にサーフィンでもしに行こう
知らないことも大切。