フェルメールと同じ時代の画家たち


  歴史の偉人の名言 フェルメールと同じ時代に活躍していた画家たちの名言となります
フェルメールというと牛乳を注ぐ女、真珠の耳飾りの女・・・思いつく絵は女性がモデルで青色が印象的な絵で有名である。
自分が好きな画家でもある。フェルメール関連の本はアマゾンや本屋さんでもよく見ます。いくつかの本を読んでそれを参考にしてしてまいす。もっとよく知りたい方は他のサイトへ行って調べるなり、読むなりしてください。ここではあくまで自分の思った事を書いています。
 
フェルメール  
現在では有名なフェルメールもそんなに有名でないマイナーな画家であり名言は載っていないですね。
 
1632年~1675年 17世紀のオランダのデルフトで活躍した画家である。有名な画家ではなくマイナーな画家だった。
オランダというと何が思いつくか?
風車やチューリップ。海抜0m地帯が多い。日本の九州と同じくらいの大きさである。日本とも関係が深い国である。
フェルメールが生きていた時代はネーデルランドと呼ばれ戦争が多かった。
、毛織物の生産や欧州諸国間との中継貿易で繁栄。神聖ローマ帝国の支配を経て、15世紀末にはスペイン・ハプスブルク家の領土になりましたが、スペインの圧政に対し、1568年に独立運動が勃発。80年戦争を繰り広げた結果、1648年、ほぼ現在のオランダにあたる地方が、オランダ連邦共和国として独立した。
 
日本との貿易が始まったのは1600年頃、徳川家康の時代です。
当時のヨーロッパ諸国はスパイスなどの香辛料や珍しい物を求めてオランダから5隻の船を派遣。しかし途中で船が襲撃にあったり、トラブルに巻き込まれて日本まで行き着いたのは一隻だけだった。
漂着した船に興味を持った家康はヤン・ヨーステンら乗員を歓迎して幕府の相談役という地位を与え、その代わりにヨーロッパ諸国の情報や航海術を手に入れ、朱印船貿易をするようになった。
教科書にも朱印船貿易はのっていると思います。1637年の島原の乱がきっかけで鎖国政策をするのですが朱印船貿易は続き蘭学と呼ばれる学問が発展した。しかしそれだけではなくて治水、灌漑技術も発展した。オランダも海抜0m地帯が多く高い治水工事技術を持っていて実際に木曽川の工事にたずさわるということもやっている。
そのくらいオランダと日本は結びつきが強かった。
1602年に東インド会社が設立され、アジアにも進出して海外貿易を独占。オランダ経済もそれで潤い、世界各地の品物だけでなく書物も集まった。
フェルメールが絵を描くときに使っていた油絵の青色の原料のラピスラズリもそういった貿易で入ってきた品物の一つです。
そういった商売をしてなり上がった市民たちで社会が成り立っていた。王侯貴族の影響を受けない国家という独特のスタイルになり、当然、絵画のクライアントが成功した市民階級である。
王侯貴族だと壮大な宗教画や歴史画を注文したりするが、市民たちはそういう画風は好きではなく身近な風俗画の需要が多くなったのではないかと思われる。
フェルメールもそういった時代に生きていた。画家として活動を始めた頃、オランダ経済もやや下降ぎみになり、デルフトにある基地で火薬庫の大爆発が起き経済にもダメージがきた。彼が晩年時代にはオランダとフランスの間で戦争が勃発。経済が停滞した。
その出来事によりフェルメールの活動にも影響がきて厳しい画家としての時代を生きていた。
 
 
フェルメールも最初から身近にある出来事は描いていません。はじめは宗教画を描いていました。途中から身近な風俗物に変更しています。彼が生きている頃はそんなに売れてない画家だった。
この時代、もっとも有名な画家はレンブラント、カラヴァッジョ、ルーベンスといった画家たちです。
 
レンブラントの名言 「鉛筆を手に取って始めなさい」
 
レンブラントは光と影の魔術師、光と影の画家という肩書があり、若いころに肖像画を描く画家として成功しています。
1606年にオランダのライデンで生まれ、両親は製粉所を経営、パン屋さんをやっていた。商売もうまくいっており、そんな家族の9番目の「子供として生まれた。レンブラント少年はラテン語学校に入学、14歳で飛び級でライデン大学に進学。14歳で大学に飛び級して進学なんてすごいですね。頭もよかったんですね。両親としては法律家にしたかったが、画家への道を進んだ。イタリアからきたスヴァ―デンウルフという歴史画家の弟子になり解剖学やいろんな技術を学んだ。独立したあとはライデンという地域にいたこともあるがアムステルダムで活躍していた。
レンブラントとフェルメールは生まれた時期や活躍した時期は違うんだけど同じオランダだったんですね。
レンブラントはザスキアという女性と結婚。この人は市長を務めた家系で裕福だった。レンブラントの絵のモデルにもなっています。
この頃、順風満帆で絵を描けば売れる時代で名声もあった。
レンブラントが活躍した1632年頃、フェルメールが生まれています。
フェルメールが少年だったころ、レンブラントは「夜警」という作品を発表。
しかし成功とはうらはらにこの頃から彼は度重なる不幸に見舞われていた。
1635年12月に生まれた最初の子ロンベルトゥスは2ヶ月で死去。1638年7月生まれの長女コルネリア、1640年7月に生まれた姉と同じ名をつけた次女コルネリアはいずれも1箇月ほどの短命で亡くなる。この年9月には母も亡くなった。彼の子供のうち、成人を迎えられた者は1641年に授かった息子ティトゥスだけであった。
『夜警』の製作中、妻のサスキアが体調を崩し寝込んでしまう。レンブラントは病床の彼女を描いた素描を残している。彼女は一向に回復を見せず、1642年には遺書を用意した。それによると、4万ギルダーの遺産はレンブラントと息子ティトゥスが半分ずつ相続するが、息子が成人するまでは彼を唯一の後見人として自由に使うことを認めた。ただし、もし彼が再婚した場合、この条項は無効になった。6月14日、サスキアは29歳で亡くなった。結核が原因だったと推測される。レンブラントはアウデ教会に購入した墓地に彼女を埋葬した
 
奥さんでありモデルでもあったザスキアが亡くなり、幼い息子を抱え、シングルファザーとなったレンブラント。仕事も抱えていたのでディルクスという女性を雇いますがその女性と愛人関係になる。
不幸が怒涛のようにやってきたみたいですね。普通なら精神的にダメージがきて落ち込んでひきこもるというのはあるかもしれません。レンブラントの場合、そうはならなかったようですね。小さなお子さんをかかえ、仕事も両立させるのは大変ですね。
現在も昔も仕事と家庭の両立は大変ですね。
相次いでティトウス以外のお子さんと奥さんを亡くして落ち込んでしまうというのもありますが彼はそうではなかったようで絵に対しての制作意欲は衰えなかった。
制作に必要だと思えばなんでも購入する浪費ぐせがあった。
 
やがてその浪費ぐせはなおらず、生活をどんどん圧迫していき、無一文になってしまう
 
そうなってもなおも彼の名声は健在でお弟子さんがいる。また別の女性と結婚。しかしいっこうに生活はよくならず1688年に63歳で急死する。
 
波乱万丈な画家人生ですね。
 
レンブラントのように波乱万丈な人生以上に破天荒な人生を送ったのがカラヴァッジョだった。
 
カラヴァッチョの名言 「強い犬は吠えない」です
彼もレンブラント同様に光と影の魔術師と言われた画家でした。
 
1571年ミラノの片田舎の村に生まれ、父、祖父と叔父をペストで失い、13歳で画家に弟子入りする。
そして24歳のとき「バッカス」という作品を書いてローマのカトリック教会からその才能を認められる。その後も「聖マタイの召命」
「聖マタイの殉教」という作品で名声を得る。
彼も才能を存分に発揮して順風満帆と思いきや、正確は短気ですぐ手が出るような性格だった。その性格が災いして画家として有名になってからも10回も逮捕されて拘置所行きになり、35歳のときにテニス賭博で友人を殺害してとうとう殺人犯に。おまけにローマ教皇から死刑宣告や懸賞金までかけられ、ヨーロッパ諸国を転々とするハメになる。あるとき、マルタ共和国に立ち寄り、マルタ騎士団隊長に自分の絵画をプレゼントして勲章をもらいますがそこでも短気な性格が災いしてトラブルを起こして刑務所行きに。そこで終わらず脱獄して逃亡。勲章ははく奪されるハメに。
なんかプリズンブレイクみたいな展開ですごいけど、本当にトラブル続きですね。
新しい場所のシチリアでも画家として名声を手にしますがやはり短気でケンカ早い性格が災いしてトラブルを起こしてしまう。
こんなトラブル続きの彼ですが画家としての腕は超一流でパトロンには困らなかったようですね。
彼としてはローマに戻りたいと思っていたがそれはかなわず38歳で病気に倒れなくなってしまう。
レンブラント以上に破天荒な人生ですね。
 
ルーベンス名言 「私の情熱は天からのもので地上の沈痛のものではない」
 
ピーテル・パウル・ルーベンス  1577年~1640年バロック期のフランドルの画家であり外交官であり、美術品のコレクターでもあった。祭壇画肖像画風景画、神話画や寓意画も含む歴史画など、様々なジャンルの絵画作品を残した。
ルーベンスはアントウェルペンで大規模な工房を経営し、生み出された作品はヨーロッパ中の貴族階級や収集家間でも高く評価されていた。またルーベンスは画家としてだけではなく、古典的知識を持つ学者であり、美術品収集家でもあり、さらに七ヶ国語を話し、外交官としても活躍してスペイン王フェリペ4世とイングランド王チャールズ1世からナイト爵位を受けています。
 
なんかレンブラントやカラヴァッジョの画家人生からすると想像つかないほどの華麗な一族ならぬ華麗なる画家さんだったのですね。
外交官というスキルも持っていた彼はある日、スペインのイザベル妃の登用を受け、オランダ、イギリス同盟とスペインの紛争の解決に奔走。イギリスと粘り強く交渉してイギリスの国王、チャールズ一世と謁見がかなって和平を実現させた。
外交官としの腕も一流だったわけですね。
外交官、画家、コレクターとしての顔を持つ彼ですが、温厚な性格もあって彼の工房には100人の弟子がいました。それだけでなくヨーロッパ諸国の王侯貴族や教会からの注文が絶えず入ってきて繁盛していたようです。
他の画家さんとちがうのは彼が残した作品は1500ほどあるそうです。こういう大規模な工房とお弟子さんたちがいないと不可能な作業だったといえます。
やさしくて面倒見のいいルーベンスだったから家庭も仕事も両立できたと思います。
 
 
話が切り替わりますが
その頃、フェルメールはデルフトからあまり離れることがなく身近な風俗画を書いて生活していた。
レンブラントが波乱万丈な画家生活をしていたが彼の生活圏内は常にデルフトの中でおさまるほど活動範囲はすごい狭かった。
普通に画家というとこの時代の画家は別の土地に拠点をうつったり移動することがあるがフェルメールの場合、大きく離れるということはなかった。全部の生活がそこで完結しているといってもいいくらい猫の額のように狭かった。
レンブラントにもパトロンがいて仕事を依頼主が多かったが、フェルメールのパトロンはいないのか?そうではなかった。パトロンではないかという人はいた。
それは彼の奥さんは資産家の令嬢で彼女がパトロンになっていた。今でいう格差婚という感じだろうか。それまでは今でいうニートで無職。俗言うマスオさん状態だ
マイナーな画家ではあったが聖ルカ組合の理事に30歳の時になっている。38歳のときにも再び理事になっています。
生前は売れない画家だったのですが周囲からは評価を認められ腕も認められていた。
そんな彼も画家だけをやっていたわけではなく宿屋の主、画商、そして借金取りとしてオランダ各地を回るといったいくつもの副業をこなしているのでいわゆるなんでも屋さんだったのだ。
そんな忙しい生活を送っていたフェルメール。彼がいた家の台所事情はどうかというと最初はよかったがフランスとオランダの戦争の影響で経済にダメージがきて屋台骨が傾いていた。かれだけでなく影響はフェルメール家や商売で成り立っていた人々に暗くのしかかっており停滞していた。フェルメールが晩年の頃は台所事情は火の車になっており、ちっとも生活はよくならなかったのだ
そういう日々が続けば誰だって精神的に落ち込むのではないかと思う。日々の生活で奔走していた彼も精神的に病んでいったのはないかと思います。
43歳で突然亡くなります。
それで終わったかというと終わりではない。奥さんのカトリーナはフェルメールが亡くなった翌年に破産宣告をだしてパン屋もたたみ、借金の返済に走り回っていた。
レンブラントも戦争の影響をもろにうけ屋台骨が傾いて自分の浪費癖も相まって無一文になっている。どこかしら共通しているのは戦争による経済の影響をもろに受けたのではないかと思います。
あくまでも自分の感想でこういう感じで描いています。
 
 
フェルメールと同じ時期に活躍していた画家を紹介させていただけいました。多少住んでいた場所がかぶっていても一ミリも混じってはいないけど四人とも対照的な人生でしたね
 
 

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