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閉店の日の出来事

 天窓に澄み切った空が広がっていた。今日は日曜日だからきっと近くの土手では草野球がやっているのだろう。外からかすかにバットがボールに当たる音や喚声が聞こえてくる。きっと外は酷く熱いのだろう。天気予報によれば今日も四十度近くまで上がるとのことだった。だがこのクーラーの効きすぎた室内にいたらそんなものはみじんも感じない。ただ時計が時間を知らせてくれるだけだ。もうすぐ一日の半分が終わる。今日はまだ客はゼロだ。

 と、マスターはこんな風に誰もいない店内のカウンターの椅子に座って勾配天井の入り口付近の天窓を見ながら小説の書き出し風な事を思って暇を潰していた。その通り今日の客はゼロだ。昨日は三人、一昨日は五人。今日は店じまいの日だってのに客の一人も来ないってのはどういうわけなんだ。閉店の知らせの張り紙は一昨日貼った。それを知ってか何人かが店にやってきた。その中のたまに店に来ていた爺さんがマスターを憐れんでこう言った。

「こうなる前にもっと店に来ていればよかったな」

 その爺さんは翌日以降さっぱり来ていない。ただ餞別をくれに来ただけ。それっきりサヨナラだ。

 隣の家から高校野球のテレビ放送の音が聞こえた。その放送によると野球は九回の表でこれを押さえれば完封らしい。今現在カウントはワンアウトで今の打者はツーストライクまで追い込まれているという。解説者は打者の選手の両親のエピソードを紹介しながら最後の奇跡をとかなんとかお涙頂戴の話をしていた。

「バカだな、そんな事言ったってどうせ完封だよ。ゼロ行進のまま、それで終了だ」

 マスターがそう独り言ちた時、突然ドアがカランと鳴って開いた。マスターはドアの方を向いてそこに客の姿を見とめた。

「あっ、どうも店は開いてるから好きなとこ座って」

 この客は髪の長い女性で最近何故か店に来る。一昨日も来たし、昨日も来たし、そして今日もこうして来た。とはいえ注文以外会話など全くしていない。マスターはカウンターに座った女に声をかける。

「店のドアの張り紙見た?この店今日で閉店なんだ」

 客の女はそれに対してはぁと興味なさげに相槌を打ってメニュー表を開いて下を向いた。やがて彼女は顔を上げてコーヒーとトーストを注文する。

 マスターがコーヒーを淹れている間、客の女は入り口付近の天井にある小さな窓を見ていた。窓には雲一つない真っ青な空だけがあった。女は漂って来た香ばしいコーヒーの香りに気づいてカウンターの向こうのマスターを見た。

「はい、コーヒーにトースト。まぁお客さんが最後の客になるかもしれないから豆は厳選しといたよ。もううちにはいらないからね」

 女はマスターに軽く礼を言ってコーヒーカップを手に取って一口飲んだ。そしてさっきのようにまた天窓を眺めた。この間来た時もこの女はおんなじように窓を見ていた。店に来ている間ずっと窓を見ていたような気がする。

「うちの店結構おかしいだろ?こんな狭い店なのに天窓なんかつけてさ。でも俺がこれ俺がデザインしたんだよね。なんかアメリカン風にしたかったんだよ」

 女はマスターの言葉に振り向きもせず相変わらず窓を見ている。マスターは思いっきり無視されてなんだか罰が悪くなった。しかししばらくすると女が再びカウンターの方に向き直って口を開いた。

「この店今日で閉店しちゃうんですね……」

 マスターはそう言った女の表情があまりに切なく見えたので驚いて思わず女を凝視した。

「まぁね。だけど閉店日だってのにこんなんだから誰も惜しむ人間なんていないよ」

「この店閉めた後どうするんですか?」

 女はこう言うとマスターの反応を伺うように彼をジッと見た。マスターは女の思わぬ態度に戸惑い思わず目を背けた。

「いや、一応知り合いのつてで建築のデザイン事務所に雇ってもらうことになってるんだけど……ってかなんでそんなこと気になるわけ?」

「じゃあもう喫茶店はやらないってこと?」

「そうなるね」

 マスターは女がここまで自分の事を詮索するのか分からなかった。さっきまで自分の事をガン無視していたくせにどうして急にこんなに自分に食いついてくるのか。彼女は一体何者なんだろうかと考えた。

「どうして喫茶店なんか始めたんですか?」

 また質問だ。この女は人からあれこれ聞き出して何がしたいのだろう。君に話すことじゃないって質問を撥ねつけたらいいのだろうか。だがマスターはこの女に妙に気を惹かれるものがあった。

「さっき店のデザインしたって言っただろ。俺は大学は建築家出てるんだ。まぁそのまま会社にいれば今頃大手のビルの建築なんかやってたんだろうけど、学生時代にたまたま入った喫茶店がね、外観も内装も、そして店のオヤジさんもすごく良くてさ。その喫茶店に何年も通ってるうちにいつしか自分も喫茶店やりたいなって思うようになったんだ。それでまぁ今から思えば大失敗だよ。完全に道を誤ったんだから。今になってよくわかるよ。俺には接客業がまるで向いてなかったってことに」

「でもずっとこの喫茶店やってきたわけでしょ?自分に接客業が向いてないって自覚しながらそれでもこの店を続けていたわけでしょ?挫折したらそれで終わりなんですか?もう一度挑戦しようって思わないんですか?」

「あなたね、ドラマじゃないんだし誰がそんな事青臭い事考えるんだよ。現実的に金がないんだし店をやりたくても続けようがないんだよ!」

 マスターはさすがに女にうんざりした。別に知り合いでもない、どころかこの間店に初めて来たような客になんでこんな事言われなくちゃいけないのだ。マスターは女のすでに空になっていたコーヒーカップとトーストが乗っていた皿を取り上げて出て行ってもらおうと思った。だがその時女が泣きそうな顔になっていたので上げかけた手を下ろして女の反応を待った。

「傷つけるようなこと言ってごめんなさい。こんな事言うつもりじゃなかったのに感情が高ぶってつい言葉が出てしまったんです。あの……多分マスターは覚えてないだろうけど私、昔たまにだけどここに来ていたんです。学生時代でしたけど……」

「なるほど」

 女の話を聞いてマスターは昔の事を思い出した。そういえば店を始めた頃よく制服を着た学生さんたちが来ていたな。彼女もあの中の一人だったってことか。だけどあの学生さんたちはいくらもしないうちに来なくなった。だけどどうして彼女は今頃になってこの店に戻ってきたんだろう。

「一昨日久しぶりにここに来てコーヒー飲んでたら凄いリラックスしたんです。ホント昔に帰ったような気分になってホッとしたんです。店にいるのかいないのかよくわからないマスターの存在感のなさも相変わらずだったし。ここには随分長く来てなかったけど、でもこの店の事はずっと覚えていたんです。だって地元でたった一つの喫茶店だったし、いつかまたお店に来たいなって思ってたから」

「なんだか悪いね。もっと僕が頑張れば店はもうちょっと続いたんだろうけど」

「やっぱりやり直しってきかないのかな……」

 マスターは女が発した言葉を聞いて唇を噛んだ。そういえばもう高校野球は終わったのだろうか。隣から聞こえるのはお笑い芸人のバカ笑いだ。そのやたら澄み切った音が煩わしい。

「まぁ、無理だろうね。多分じゃなくて絶対だ」

「そっか……」

 女はそう言って椅子から立ち上がった。そしてにこやかに笑ってバックから財布を出した。

「ありがとうマスター。今まで飲んだ中で最高のコーヒーだったよ」

「こちらこそどうも。最高の誉め言葉だよ。最後の日に寄ってくれてありがとう」

「今までお疲れ様、じゃあさよなら」

 カランカランとドアのベルと共に女は店から去った。無人となった店内でマスターは再びカウンターの椅子から天窓を眺めた。彼は去り際の女のかすかに笑みを浮かべた顔を思い浮かべた。妙に気になる表情だった。だが彼女は二度とここに来ることはないだろう。それは別れ際のあの顔が全てを語っている。窓枠で切り取られた空は水色の絵の具のように澄み切っていた。外はまだまだ暑いのだろう。一体今年の夏はいつまで続くのだろうか。マスターはそのままぼうっとして空を見ていたが、急に寒気を感じたので設定温度を上げようとクーラーのリモコンを手に取った。だがその時外で誰かがこう叫んだのにビックリして思わずリモコンを落とした。

「〇〇ビルで女が飛び降りたぞ!今すぐパトカー呼べぇ!」

 しばらくしてパトカーのサイレンが鳴り出した。それと同時に野次馬らしき人たちの声も聞こえてきた。マスターはそのサイレンと誰かの叫び声が響く店内でただ茫然としていた。

 


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