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《連載小説》全身女優モエコ 芸能界編 第二十七話:クリームパイ
モエコはそれから長い間楽屋で出番を待ち続けた。とはいえ楽屋に入っているのはモエコだけであった。猪狩は第六スタジオから楽屋に戻るなりモエコから演技の準備が終わるまでドアを開けるなと言われていきなり部屋から叩き出されたのだ。その時モエコは彼に向かって誰がきても自分を呼ぶな。そして絶対に覗くなと鬼のような顔で付け足した。そんなわけで猪狩はストーブも置かれていない廊下で一人震えて立っていた。
そうして立っていると入り口の方が段々騒がしくなってきた。今日の収録のスタッフやキャストが続々と入ってきているようだった。遠くの方でおはようございます。なんてスタッフの挨拶が聞こえてきた。周りのスタッフたちの足音を聞いて猪狩は夜のモエコのベッドシーンの撮影を思い出して陰鬱になった。彼はさっきモエコから彼女のベッドシーンに賭ける思いを聞かされた。彼女の尋常ならぬ覚悟を見て猪狩は自分ではもう止めることは不可能だと思った。だが、このまま何もしなかったらモエコは本当に南狭一とセックスしてしまう。そうなる前にモエコが悪い夢から覚めてくれればいいのだが、ああ!だが不幸な事にモエコは悪い夢を見ているわけでもなく、誰かに洗脳されているわけでもなかったのだ。モエコは誰かに洗脳されるにはあまりにも自我が巨大過ぎたし、悪い夢ならモエコ自体が生涯女優という夢そのものを生きた人間だからだ。モエコは女優としてただ役を演じ切るために南とベッドシーンを演じようとしているのだった。
しかしそんな事はさせるわけには行かない。なんとしてでも止めなければ。猪狩は廊下で寒さに震えながらモエコを止める方法を考えていた。その彼の前を慌ただしい足音と、おはようございますのさらに慌ただしい挨拶が通り過ぎて行った。彼も勿論通ってゆくキャスト達に頭を下げて挨拶をした
モエコが楽屋にいるという事を聞いたのかプロデューサーが慌てた調子でこちらにやってきた。彼は昨日のロケでモエコが酷いショックを受けたのを聞いて心配でたまらず駆けつけたという。プロデューサーは持ってきた差し入れを手にドアから楽屋のモエコに向かって「モエコちゃん!差し入れを持ってきたよ」と呼びかけたが、モエコからはなんの反応もしなかった。猪狩ははモエコは演技のために全集中しているのだと謝ったが、それを聞いてプロデューサーが不安げな顔で彼に尋ねた。
「猪狩ちゃん、ホントにモエコちゃん大丈夫なの?朝早くにきたから立ち直ったって思ってきたら全然出て来ないじゃない。とにかく今日は大事なシーンなんだからモエコちゃんにはちゃんと演じてもらわないと!」
ああ!確かに困るのだ!モエコはプロデューサーや撮影スタッフたちが想像する全く逆の方向でその何かを起こそうとしているのだから。モエコに会うのを諦めたプロデューサーはふてくされたような顔で、これモエコちゃんに差し入れだからと言って猪狩に手提げ袋を突き付けて去って行った。続いて撮影スタッフたちも揃ってやってきた。彼らもプロデューサ―と同じように差し入れを持ってきてモエコによろしくと言った。猪狩はやたら気を使ったスタッフの態度を見てやはり今日は大事なシーンだからここまで気を使っているのかと思った。
しかしモエコの所にやって来たのはプロデューサーやスタッフ達だけではなかった。なんとキャストたちまでこぞってモエコの所にやってきたのだ。キャスト達の大半はあった事すらなかった。彼らはモエコが演技で海老島権三郎や三添薫を食ってしまったと聞き、一眼モエコに会いに来たという。俳優たちは猪狩からモエコは今演技に全集中するために楽屋にこもりっきりである事を聞くと、彼らは感嘆した顔をしていやいや大丈夫ですよ。それよりも火山さんを気遣ってあげてくださいと丁重に猪狩に差し入れを渡した。
猪狩はもう両手で差し入れが持てなくなったので楽屋のモエコに渡そうとしてドアをノックしかけたのだが、その寸前彼女の鬼のような形相を思い出してとどまった。
モエコが演技の準備のためにドアさえ開けてくれないので猪狩はとにかく廊下で待つしかなかった。その後も関係者が続々と楽屋を尋ねて来て差し入れを出しながら、昨日のモエコの演技をベタ褒めし、火山さんは久しぶりに現れた新星だと褒めちぎった。彼はもう廊下に積むしかなくなった差し入れの山を見てモエコがここまで期待される女優になったのかと感慨を覚えた。だが、これからモエコを待っているのは南との呪わしいベッドシーンなのだ。ああ!今モエコは夜に演じるであろうベッドシーンの演技のトレーニングをしているのだ!本気すぎるほど本気に!
しばらくすると今度は例の海老島権三郎の付き人がやってきた。付き人はモエコの事を聞き、猪狩がそれに対してモエコは事情があって出てこれないと謝るとそりゃあんなことやるんだから当たり前だと笑い、今夜のモエコちゃんの演技先生も期待しているぜ、と言伝をして猪狩に木製の箱を渡した。箱を持った猪狩はタプタプと液体がビンに当たる音がしたのでやはり酒だと思った。付き人は猪狩が箱を受け取ったのを見るとじゃよろしくと言って去って行った。
それからいくらもしないうちに三添薫のマネージャーもやってきた。彼女は丁寧に「つまらないものですか三添からの差し入れです」と言って差し入れを猪狩に差し出した。彼はこの大女優の差し入れを恐縮して受け取り深く頭を下げた。
続いて俳優の蟹谷新三がやってきた。猪狩は蟹谷の思わぬ登場に驚いた。この蟹谷新三は三添薫扮する上代典子の浮気相手役の羽村浩介を演じている俳優である。彼は知性派俳優として知られているが、そのインテリ俳優もモエコに興味を持ったのだろうか。猪狩は蟹谷に恐縮して挨拶をした。しかし蟹谷は猪狩の挨拶に応えず、少し立ち止まって廊下に置かれたモエコへの差し入れの山を一瞥して半笑いでそのまま通り過ぎてしまった。
それから再び人気がなくなった。先ほどまでひしめいていた声と足音はもう遠くからかすかに聞こえるだけになった。さっきは人の熱気で暑くさえ感じた廊下は再び寒くなってきた。時計を見るとまだ8時前だ。ああ!これから長い時間寒さに耐えなければならないのか。
しかしその時であった。喧しい声と足音があの人物の入場を告げた。それは三日月エリカである。「三日月さんおはようございます」とのスタッフの挨拶に三日月は「よろしくお願いしま〜す!」とブリにブリをかましたようなぶりっ子ぶりで応えた。三日月はスタッフやガードマンに囲まれながら歩いてたが、モエコの楽屋の前に立っている猪狩を見ると、大便器にまたがったようなブリブリの小走りでやってきて「ああ!モエコちゃんのマネージャーさんね。朝早くからどうしてここにいるの?まさかモエコちゃんもう来てるの?」と尋ねてきた。全くなんという変わりようかお前は昨夜のロケでどれだけモエコに酷い仕打ちをしたと思っているんだ。猪狩は三日月とのバトルを恐れて問答無用で帰ってもらおうとしたが、しかし三日月は彼を押しのけてドアをノックしてモエコを呼んでしまった。
「ああ!モエコちゃん!エリカモエコちゃんが心配でお見舞いに来たのよ!だってモエコちゃん、昨日のロケであんなに醜悪で残酷なことさせられたんですもの!おまけに今日は南くんとのベッドシーン。しかも裸になるんでしょ?ああ!エリカにはそんな事耐えられないわ!モエコちゃん、怖がらないで出てきて。エリカが慰めてあげるから!」
もはや遠慮なしの大哄笑でモエコを嘲笑う三日月であった。彼女は昨日の強姦シーンの撮影で果てしなく意気消沈したモエコに止めを刺さんとしているのだ。三日月はモエコが出てこないので諦めたのか取ってつけたような笑顔を浮かべて猪狩にきついほど甘い香りのする菓子箱を差し出した。
「ウフッ、モエコちゃんのためにクリームパイもってきたわ。ちゃんと渡しておいてね。このクリームパイはね、クリームが溢れそうなほどたっぷりの甘いクリームパイなの。モエコちゃんが無事に演技が出来ますようにっていうおまじないのために持ってきたのよ。これ絶対に収録の前に食べてもらってね!本当にいいおまじないなんだから」
三日月はそう言うと猪狩が手にしている菓子箱を見て邪悪な含み笑いを浮かべた。しかしすぐに心配そうな表情を作って猪狩にこう言った。
「マネージャーさん、モエコちゃんに何かあったら絶対にエリカの所に来てね。エリカ、真っ先にモエコちゃんの所に駆けつけるわ!」