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聲の恋人

 心の中に飼っている薄気味悪さはやがて純化されて愛へと変化してゆく。本当ならこんなのはただの冗談だった。ちょっと遊んでからすべて冗談でしたなんてポイ捨てしてさようならって感じのものだった。だけど僕は今人気のないこの公園にいる。僕と一緒に立っている奴らはいかにもなバカそうな連中。きっとまぁそうなんだろうと悍ましさと軽蔑と、そしていささかの憐みで見下すような奴らだ。まぁ、僕だって世間の人間からすれば似たようなもんだけど、僕が今ここにいる理由はそれだけじゃないんだ。

 まぁ、僕がマシな状況だったらこんな事には関りさえしなかった。興味があったから、いや必要としていたからクリックしたんだ。こんなものいつでも引き戻せるって。だからいかにも、いや実はまんまなんだけど、やる気ありますって感じのメッセ送って向こうの反応を待ったんだ。さっきも言ったけどボクはいつでも引き返すつもりだった。やたらレスの早いコイツラをからかってやってるつもりだった。やり取りはとりあえず軽いやり取りから、そしてそれが進んで実際の案件の話。そこでもまだ戻れるって思っていた。前日に最終確認のためにこちらから連絡するってメッセが来た時だって、僕はとうとう来たと思って思いっきり断って恥をかかせてやれと思った。身分証明書とかの類は別に要求されていなかったし、電話で散々悪態をついてはいさようならとガチャ切りしても別にこっちのアシはつかないだろうと思った。

 だけどだ。前日の連絡の電話に出た瞬間、僕は懐かしい声を聞いてしまったんだ。それは別に昔の知り合いでも、恋人でもない。自慢どころか恥晒しだが、僕には生まれてこの方恋人なんてものはいなかった。電話の声は僕が昔ファンだった声優の子だったのだ。僕は電話の彼女の声を頭の中で無数に反芻して確かめたんだ。これは絶対に彼女だ。だけどなんで彼女が指示役なんてやっているんだ?彼女は声優じゃないか?僕はやはり彼女ではないのかもと思った。だけどいくら疑っても彼女の声にしか聞こえないんだ。そういえば彼女に関しては最近情報がなかった。昔は主役級クラスの声なんか当ててたが、事務所をやめたと聞いた辺りから彼女の話題はあまり聞かれなくなっていった。僕はそれでもネットとかで情報を得て彼女の出演しているアニメを追っていたが、やがて彼女は地上波やネットのどのアニメにも出なくなった。確かに僕は落胆はしたが、彼女はきっと引退してもしかしたら結婚でもしてるのだろうと、これで踏ん切りがついたと思い踏ん切りをつけたのだった。

 だけど今その彼女が必死に僕に仕事を受けてくれるように頼みこんでいる。

「あの、今ここでキャンセルされたらもう代わりの人いないんですよ!もうわかってると思いますけど、この仕事って凄いリスクですよね?こっちとしては引き受けていただけるだけでありがたいんです!お願いです!私たちを救ってください!私はあなたが断ったからって何もすることはないです。だけどここまできてやめられたらもう私は終わりなんですよ!」

 あのアニメでさんざん聴いた声で彼女は必死に僕を説得していた。そういえば彼女はなく演技が凄いうまかった。彼女の鳴き声を聴くと自然と涙が出た。だけど今はその演技をかなぐり捨てて僕を説得していた。僕はたちまちのうちに彼女の泣き落としを聞いているうちに自分が考えていたことが全て恥ずかしくなった。いつの間にか俺はこの子に対してなんてことを考えて行たんだバカ野郎と自分を責めるようになっていた。確かに自分でもバカだと思う。だけど僕はあの憧れの彼女を救ってやりたくなったんだ。あの人気声優だった彼女がこんな名もない、しかもあったら嘔吐しそうな不細工な貧乏人を泣きながら説得している。もうダメだった。僕は完全に理性を失ったんだ。こんなくだらない人生彼女のためにくれてやるって思ってそのまま僕の身分証明書やらを全部差し出してしまったんだ。

 今公園に最後の一人が入って来た。これがまたバカそうな若者で、すんませ~んとか軽いノリでこちらに駆けてきた。これで全員だった。すでに何度かこう言った行為に手を染めているらしいオヤジが偉そうにいろいろ説明を始めた。そして短い説明が終わると早速僕らは現場へと向かった。その時同行していた奴の一人が最後に来た奴に向かって話しかけた。

「あの~、ねえ今回の指示役の女の子ってさぁ~。昔いた声優の朝霧霞の声に似てね?」

「だれだよそれ。俺アニメ知らねえし。でもすっげえ必死だったよな。その声優に似てるっていうババ声の指示役。下手な泣きまねなんてしてさ。今日はよっぽど人いなかったんだろうな」

「ババアってそんなに昔の声優じゃねえよ。四五年まえにちょっと人気だった子だよ」

「ババアだよ、そりゃ!」

 誰もいない裏道に冷たい風が吹いていた。今さっきまで僕に憑りついていたものが急に剥がされて僕は素っ裸でこの現実へと放り出された。僕は奴らに動揺を悟られまいとしてジャンバーのえりを立て小走りに歩いた。

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