陰鬱な美青年
三島由紀夫が激賞した小説に『陰鬱な美青年』というものがある。この小説はフランスの作家ジュリアン・グラックによって書かれたもので、三島によればトーマス・マンの『魔の山』を思わせる傑作であるらしい。しかし三島に言わせるとこの小説の日本語訳は悪訳もいいところでまともに読めないものだそうだ。
私は銀座のギャラリー展示されていた須藤歌亜という画家の同名の絵画『陰鬱な美青年』を見ながらグラックについて書かれた三島の文章を思い出した。私は絵を見ながらグラックの主人公とはこの絵の美青年を重ねた。とはいっても私はグラックのこの小説は読んだ事がない。ただ三島の文章でそんな小説がある事を知るだけだ。だけど私にはこの絵がその小説の美青年そのものに見えた。多分小説を読んでいないからそんな想像ができるのかもしれない。
この縦長のカンバスで正面で描かれた美青年はほぼ全裸で下半身だけはオリーブの葉で隠されている。背景は黒みがかった黄褐色でその暗さが美青年の全身を輝かせていた。その背景を前に美青年は両腕を水平に上げて正面を見ていた。両手は画面が切れているので見えないが、窓か何かを開いているのだろうか。
私は三島もこの絵を気にいるだろうと思った。この絵は明らかに彼の愛する聖セバスチャンやギュスターブ・モローの影響を受けたものであった。しかしこの閉館間近の窓も真っ暗な誰もいないギャラリーでこの正面を凝視している美青年の絵を見ているとなんだか自分が見つめられているような気分になってくる。特に目なんか今にも動きそうなほどリアルだ。ふと見ると一瞬美青年が目を閉じたような気がしてドキっとなった。この美青年はこんな陰鬱な表情で何を見つめているのだろうか。彼はひょっとしたら誰かに救いを求めているのかもしれない。女性かあるいは神とかそういう私たちの触れることのできない永遠なる存在に。
しかしこの絵を描いた須藤歌亜とは何者なのだろうか。私は結構アートに詳しい人間だけど須藤歌亜なんて画家聞いたことがない。この画家は男性なのだろうか、女性なのだろうか。絵の下に貼られていた画家のプロフィールを見ても何も書かれていなかった。ただわかったのが、この画家が美大を出ていないという事だけだった。ふと目線を絵に戻すと再び美青年の目にかちあった。私は自分を見つめる美青年の目に突然迸る様な熱さを感じて目を逸らした。その視線は確実に私の中の何かを射抜いた。
「あの、もうすぐ閉館時間になりましたのでご退出お願いできますか?」
ギャラリーの店員がそう言ってきたので私はすぐにギャラリーを出た。私はそのまま駅に向かい電車に乗ったが、吊り革に掴まっている最中にあの絵の事を思い出した。あの私を見つめる熱い目は忘れようたって忘れられるはずがない。あの絵のことを思い出すと妙に昂ってきた。その私の態度がおかしいのか他の乗客たちが私をチラチラ見て遠巻きに退いてゆく。そんなに私がおかしい状態になっているのだろうか。まさか絵なんかでこんなに心が昂るなんて思わなかった。
家に帰っても美青年の事が頭から離れなかった。夜食をとっている時も彼が向かいのテーブルの下にいるような気がしたし、シャワーを浴びている時もバスルームの曇りガラスの向こうで彼がこちらを見つめているような気がした。そしてベッドで寝ている時も彼が背中に張り付いているような気がした。朝起きたら何故かベッドに絵の具の匂いが濃厚に漂ったが、それは幻覚なのだろうか。それから私は起きてキッチンに行き朝食をとったが、食べている時昨夜と同じようにテーブルの下に美青年の視線を感じたのだ。私は思わずテーブルの下を覗こうかと思ったが、途端にバカバカしくなってやめた。全くアホらしい。テーブルの下に絵なんてあるわけないではないか。それとも美青年が絵から抜け出したとでもいうのだろうか。全く頭がどうかしている。私はさっさと残り分を食べ歯磨きを済ませてから家を出た。
電車の中でも私はそばで美青年に見つめられていた。私はその熱い視線を浴びて混乱しきっていた。他の乗客はラッシュなのに昨夜のように私を遠巻きに囲んでいた。きっとみんなには私が異常に見えるのだろう。確かに私は変だ。昨日見た須藤歌亜という知らない画家の絵でこんなにも感情が昂ってしまうなんて。一体どうしてこんな絵なんかにここまで人をおかしくさせるのか。私は萌え絵とかに一切興味のない人だが、今なんとなく萌え絵を好きな人の気持ちがわかった気がする。本当に好きなものは実体化するのだ。今私は本当に美青年が生きているような気がした。
オフィスについても仕事どころじゃなかった。美青年がデスクに座っている私を舐め回すように凝視しているような感覚に襲われた。私はこのままだったら完全に病気になると思った。この病気を治すにはあの絵を買うしかない。しかし須藤歌亜という画家はなんてとんでもない絵を描いたのか。今まで古今東西のアートをしゃぶり尽くしてきた私をここまで夢中にする絵を描いたなんて。今日仕事が終わったら真っ先にあのギャラリーに行こう。いや、今すぐ早退して真っ先にギャラリーに駆けつけよう。そう思って私が席を立とうとした途端隣に座っていた同僚が恐々とした顔で私の肩を突いて話しかけてきた。
「あの……あなたの後ろでほぼ全裸で葉っぱで股の間隠して額縁を正面に向けて持ってる人あなたのお知り合い?……あのさ、うちの会社部外者立ち入り禁止だから出て行ってもらいたいんだけど」
私は同僚の言葉にへっと思わず変な声を出してゆっくり後ろを向いた。すると同僚の言う通りほぼ全裸で葉っぱつけて額縁を自分が中に入るように正面に向けている人が立っていた。その人はあの『陰鬱な美青年』そっくりの格好をしていた。私はあんまりの事態に唖然として頭が真っ白になった。私は恐る恐るこの全裸の額縁男に聞いた。
「あの……あなた何してるんですか?っていうかいつからここにいるんですか?」
「いやだなぁ、昨日のあのギャラリーでの宿命的な出会いからずっとだよ。僕はあのギャラリーで絵のふりしてずっと額縁に入っていたんだけどそこにあなたがやってきた。僕はすぐに夢中になったね。そしてあなたもまた僕に夢中になった。僕は夢中になりすぎてこんなことをしてはいけないと思いながら、この格好で額縁を持ったままあなたをつけたんだ。あなたの家に入ってテーブルの下からあなたの食べている姿を眺め、シャワーを浴びているあなたの朧げな姿も曇りガラスの向こうから見た。そしてあなたと一緒に寝てあなたの背中を一晩中見ていたよ。翌日も朝食を食べるあなたをテーブルの下から見つめていたし、電車の中でも人が僕を避けて逃げてくれたおかげで心ゆくまであなたを見ていられたよ。ああ!あなたがこんなにも僕に夢中になってくれるなんて!僕もあなたに夢中だよ。もうギャラリーなんか行く必要ないよ。僕はもうあなたのものなんだから」
私はこの全裸額縁男の戯言を聞いて頭がガーンとなった。もう私の頭にはタライやら鍋やら隕石やらが地球を破壊するぐらい降っていた。ああ!という事は昨日の帰りの電車から絵に見つめられてる気がしたのは、絵のふりをしたコイツにストーキングされていたからなのか!こんなのがそばにいたら誰だって引くに決まってるじゃない!ああ!穴が入ったら入りたいじゃなくて蟻を叩き出して巣穴に入ってやりたいわ!ああ!顔が真っ赤すぎて赤色超巨星みたいになってるわ!私は全裸額縁男を見て言った。
「な……何故そんなことを」
全裸額縁男はニッコリと微笑んで私に言った。
「いやだなぁ。それは僕がストーカーだからに決まっているからじゃないか。大体僕はストーカー中のストーカーだよ?それは僕のペンネーム見ればわかるじゃないか。須藤歌亜ってそのまんまじゃないか。とにかく僕らは一心同体だ。今すぐ会社を抜け出して早く一つになろう。君が望むならここでしたっていい。僕はこの通り準備満タンだから」
私は完全に激怒して近くの工事現場からローラーをパクってきた。そしてローラーを押しながら全裸額縁男に突っ込んだ。
「このストーカーめ!そんなに私のものになりたいならこのローラーで二次元になってしまえ!そして退廃芸術になって焼却されてしまえ!」
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