カップラーメンで夜を越える
深夜にカップラーメンを食べるなんて不健康で、あまり褒められた行為ではない。だが空腹を満たすには一番手頃な代物だ。近頃は人気ラーメン店監修のカップラーメンなどが発売されているが、食べてみるとなかなか本格的なものであり、特に最近どこかの酒屋と揉めている某店のものなど中身も味も瓜二つでわざわざ店など行かなくて良いと思われるほどである。
とはいえ、そんな本格的なカップラーメンでも深夜に食べるのは不健康だし、大体ラーメン自体が不健康そのものの食べ物なのだ。だがそれでも今こうしてテーブルの上のカップラーメンを手に取って食べようとしている。
カップラーメンの麺が茹で上がる時間は大体三分から五分程度だが、その時間は何故か異様に長く感じる。大袈裟にいうなら、まるで無理矢理時間が引き延ばされたのではないか、と思えるぐらい長く感じる。普段の生活でこれほど時間の長さを感じる事は実はそれほどない。どんなに重要な出来事でも始まってみれば拍子抜けするほどあっさりと終わる。待ち時間だって緊張があるためか意外に早く時が流れる。
だがカップラーメンの待ち時間はどんな状態の時でも一定の感覚で流れる。ごくたまに時間があっという間に過ぎてしまうことがあるが、そういう場合は決まってカップラーメンに湯を入れていた事を忘れている時であり、カップの中にただ湯を吸い込み過ぎた麺だけが残っている場合である。
しかしどうしてカップラーメンが出来上がるまでの時間はこれほどに長く感じるのか。時間感覚は人それぞれ違うだろうが、カップラーメンに関してはやはり皆長く感じるというという。おそらくそれはカップラーメンを作る事がただ待つという行為に集中しているからだと思われる。特にこの雑音も少ない深夜の台所でカップラーメンを作る時などそれが一層顕著に現れる。
私はカップラーメンに特にこだわりはない。今まで最初に発売されたカップラーメンである日清の『カップヌードル』を始めいろんなカップラーメンを食べてきた。サッポロ一番のカップラーメンも食べたが、これはあまり関心しなかった。やはりサッポロ一番は袋麺の方がいい。だが基本的に私は選り好みはしない。高いものから安いものまでなんでも食べる。
時計を見たらあと二分ほどで十二時だった。今日の締めがカップラーメンとは情けなくもあるがまぁいいだろう。別に胸を張るほど輝かしい人生を送っているわけではないのだし。というわけで私はさっそくすでに蓋を開けていたカップラーメンにポットのお湯を注いだ。中から麺と中に開けていたかやく類の微かな匂いが微かに漂う。カップの線まで湯を注ぎ終えると再びカップの蓋を閉じてスープの袋を乗せて三分待つ。
窓から覗く深夜の街は昼間の喧騒が嘘だったかのように静まり返っている。時は終わらぬ夜を証明するかのように円満に流れる。もうそろそろかとスマホを見てもまだ十二時になっていない。カップラーメンの蓋を閉じたのが五十九分だからまだ一分もだっていない。やがて時計は十二時を越えた。今、今日は昨日になり、明日は今日になった。だがカップラーメンはまだ出来ていない。あと二分だ。
その二分の待ち時間の苦痛を乗り越えてようやくカップラーメンが出来上がった。私は蓋の上のスープ袋をのけて蓋を開き、そこに袋から開けたスープを流し込んで箸で麺とかき混ぜた。
すすっても特に美味しくもない普通のカップラーメンである。最近はずっとカップラーメンなのでカップラーメンに美味を感じることはあまりなくなった。麺を啜りスープを飲みほしたら、空のカップと開けた蓋などはゴミ箱行きだ。
空のカップと蓋や袋類をゴミ箱に捨てると、私は台所の電気を決して洗面所に行き、そこで歯を磨いてから寝室に入った。そこで私はベッドの上のいつもの見慣れた光景を見て苦笑した。
翌朝起きて台所に向かった私はそこにいた妻に挨拶がてらにこう言った。
「あの……いい加減カップラーメンやめて欲しいんですけど」
したら妻は急に厳しい顔になってこう答えた。
「えっ、あなたカップラーメンじゃ不満なの?いつも手頃な料理がいいなっていうからカップラーメン買ってきてあげているのに!」
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