《連載小説》全身女優モエコ 上京編 第二十二回:絶望から始まるドラマ撮影
神崎の思いもよらない言葉にモエコはショックのあまり目を見開いたまま固まってしまった。神崎のこの冷たい態度は恋愛をまるでしらない少女にとって耐えがたいことであっただろう。子供の頃からの憧れの俳優であり、もしかしたら恋をしていたかもしれない男に、面と向かってお前なんか知らないと言われたのだ。今までのモエコのやって来たことを見てたらこれは大変な事態になることは簡単に予測できた。猪狩は慌ててモエコの前に立って神崎に必死に謝った。彼は謝りながら後ろのモエコが暴れ出さない事を祈った。ああ!モエコよ、どうか暴れないでおくれ。お前がここで暴れたら全てがご破産になってしまう。だがモエコは暴れなかった。楽屋をめちゃくちゃにしなかったし、神崎をボコボコにもしなかった。ただ彼女は顔を震わせながら神崎に頭を下げて大人しく部屋から出だだけだ。神崎のマネージャーらしき男が頭を下げて誤り続ける猪狩にこう言い放った。
「お前そのバカガキにどんなしつけしてんだよ!ちゃんとお手てぐらい学ばせたらどうなんだぁ!」
モエコはさっきまでのはしゃぎぶりはどこへやらすっかり押し黙ってしまった。それほど神崎雄介に言われた言葉がショックだったのか。当時の猪狩はモエコと神崎の関係を知らなかったから、あのモエコがここまで落ち込むのかと心底驚いた。猪狩たちはそのままスタッフに連れられて大部屋へと入ったがモエコはその間ずっと押し黙っていた。
今、あの時の出来事を振り返れば何故神崎雄介がモエコに対してあそこまで邪険な態度をとったのか大体想像できる。まず考えられるのがあの火山の噴火の事だ。今ではよく知られている事だが、神崎は人気シリーズの『情熱先生』に心の底からウンザリしていた。こんなバカな学園ものなんかさっさと辞めてまともな俳優になろうとして気鋭の監督として知られる小島泉の映画に出演したのだが、その映画がクランクアップ直前であったにも関わらず、ロケ地で起こった大噴火のせいで制作中止になってしまったのだ。ああ!たしかに今の時期に火口に飛び込んで心中するオチはまずかろう。大体そのロケはその噴火した火山で行われたものなのだ。そのようないわくつきの映画など上映できるはずがない。神崎雄介は不幸にもほどがある偶然のせいで映画が制作中止になり本格俳優へ転身する機会をまんま失われてしまった。そのショックが彼にあのような冷淡な態度をとらせてしまったのかもしれない。しかし恐ろしい事に神崎が本当にモエコとの出来事を覚えていなかった可能性だってあるのだ。そんな事信じられぬと誰もが思うであろうがこれは後に知るであろう神崎雄介という人間の性格からすれば大いにありうる事だ。
しかし神崎という人間を全く知らなかった当時のモエコはただ憧れの神崎に冷たく突き放されたという事実にショックを受けて無言のまま立ち尽くすだけだった。猪狩は楽屋で無表情でうなだれているモエコに声をかけたも彼女は全くの無反応であった。真理子もモエコが心配で神崎さんはたまたま機嫌が悪かっただけ。後で謝ってくれるわと慰めてもうんともすんとも言わなかった。
モエコはもはや演じるどころではなくなってしまった。いつもなら大袈裟に泣いたり喚いたりして悲劇のヒロインよろしく自分の辛さをアピールしまくるモエコであるが、今回に限ってはショックのあまり感情すら出せず他の役者たちが台本の読み合わせをしている中ただ立ち尽くすだけだ。ああ!猪狩は今にして思う!全身女優火山モエコもまたひとりの女であったのだと。彼女も平凡な女のように恋をする女だったのだ。しかし今は悲しみに沈んでいる時ではなかった。ドラマの収録は着々と準備が始まっていたからだ。
ドジっ子の教員研修生を演じる真理子は出番に向けて一心不乱に台本を読んでいた。彼女もやはりモエコが心配であったがしかし近づく収録に備えなければならなかった。真理子はそれでもやはりモエコが気になるのかチラチラとモエコを見ていた。しかし時間は刻々と近づいていた。大部屋といっているくせにやたら狭いこの部屋の中で入り口付近で突っ立っているモエコは移動の邪魔になっていた。猪狩がモエコを移動させようとしたが彼女はテコでも動かなかった。他の出演者たちはモエコに対して邪魔と罵り突き飛ばしたがそれでも何の反応も見せずただ立ち続けた。そんなモエコに他の役者がこう毒づいた。
「アンタ、やる気あんの?みんなが収録に向けて一生懸命準備してるのにさ、アンタひとり何ボーッと突っ立ってんのよ!ハッキリ言ってさ、やる気のないヤツは邪魔なのよ!今からでも遅くないからさ!早く役を降りて来なよ!」
今モエコに文句を言った彼女はモエコと同じ不良少女役である。いかにも苦節何年小劇場でやってますといった風の女であり、不良少女を演じるにはとうがありすぎるような気もするが、やっと貰えた役に対して真剣に取り組んでいるのが態度からありありと見えた。
猪狩は彼女に謝ってその場でモエコを注意したが、モエコからは何の反応もしなかった。彼女はそのモエコを見て猪狩に言った。
「あのさ、この子降ろしてもらった方がいいんじゃないの?何でこんなのが受かって、私の仲間は落ちたのよ。全くわかんないわ!」
彼女の言葉にモエコが僅かながら反応した。顔をピクっとさせて頭をあげたのだ。
やがて撮影スタッフがやってきて職員室の収録の開始の案内に来た。この楽屋内で職員室のシーンに出るのは真理子と警官役を演じる数人の役者だけだ。私は真理子を連れて行くのでモエコに向かって真理子の椅子に座って待っていろと言った。だがモエコは頭を振って普段からは想像できない細い声でどうしても収録現場に行きたいと訴えたのだ。
「お願い。モエコも連れて行って欲しいの」
猪狩はこのモエコのありえないぐらい真摯な表情を見て彼女を現場に連れて行く事に決めた。恐らくこの時モエコは自分にあれだけ冷たくあたった神崎雄介という男がどういう人間であるか、そしてどういう俳優であるかを確かめたかったのだ。彼はモエコについてこいと言い、早速撮影現場である第四スタジオへと向かった。
現場ではすっかりセットの準備を終えた撮影スタッフが今か今かと俳優たちの到着を待っていた。目の前には職員室と不良の溜まり場の舞台セットがあり、そこがそれぞれドジっ子教員研修生役の真理子と不良少女役のモエコが演じる場所だった。すでに現場に駆けつけた俳優たちは椅子に座ってコーヒーを飲んだり、台本を読んだりしていた。主役の神崎雄介はどうやらまだきていないようだ。私は真理子を連れ立って俳優たちに挨拶周りをしたが、彼女は完全に動揺して挨拶すらままならなかった。真理子はこの現場のピンと張り詰めたような緊張感にすっかり飲み込まれてしまっていた。それも仕方があるまい。彼女にとっては初めての大役であり、いつものようなオーディションではなく直々に指名された役なのだ。やがて共演者達が次々とスタジオ入りしてきた。皆テレビで散々見た顔だ。スタッフは共演者が入るたびに「○○さん入りましたぁ!」と呼びかけて手を叩いて皆にも拍手するよう促した。真理子はすっかり上がって息も出来ないような状態になりやっとの事で立っている始末だった。
そんな真理子とは対照的にモエコはテレビで見知っているはずの俳優の登場に眉一つ動かさず、相変わらず暗い表情で俯いていた。彼女の表情は先程よりずっと暗くなっており本当にこのままで演技ができるのかと心配になった。私はモエコが気になり声をかけようとしたが、その時スタッフがさっきより遥かに大きい声でこう呼んだのだ。
「本ドラマの主役情熱先生を演じる神崎雄介さんが入りましたぁ!」
スタジオ内に割れんばかりの拍手が鳴り響いた。神崎雄介は先程の無表情ぶりとうって変わってさわやかな笑顔での登場だ。スタジオの人間の視線が一斉に神崎に注がれた。神崎はその周りの視線を浴びながらこれがスターなのだと見せつけるように颯爽と歩いてゆく。真理子は驚いて胸を押さえて蹲った。そしてモエコも顔を上げて神崎を見つめた。彼女は無言で神崎にアピールしていたのだ。神崎さん思い出して!モエコよ。あの九州の火山の麓の森であなたと逢ったでしょ。あの森で出会った山の妖精の美少女のモエコは女優になってあなたの所に来たのよ!お久しぶりとか、半年ぶりだねとかそんな事でいいから何か言ってよ!モエコはあなたに憧れて女優になったんだから!そのモエコの願いが通じたのか、神崎がモエコの前で足を止めた。そして笑顔で彼女を素通りして真理子に話しかけたのだ。
「君がドジっ子教員研修生役の白星さんか。新人さんかい?まぁ、最初はいろいろと戸惑うかもしれないけどよろしくね」
真理子は頭が真っ白になって「ああ……」と言葉さえろくに発せずただ何度も深くお辞儀するだけだった。挨拶を終えた神崎はモエコを無視、というより全くその存在に気づかなかったかのように、颯爽とモエコの下から去って行った。