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《連載小説》全身女優モエコ 芸能界編 第十九話:濃厚接触!
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監督のカットの声がかかったその瞬間、スタジオ内で一斉にため息が漏れた。皆が横たわる彼女に注目している中、モエコはゆっくりと床から起き上がり、どこか熱に浮かされたようなうつろな表情で自分の椅子へと歩いた。それからしばらくして監督からOKの声がかかるとスタッフが一斉に拍手を始めた。ああ!その拍手は明らかにモエコの見事な演技に向けられたものであった。今、モエコは完全にその全身女優としての才能を輝かせていた。スタジオに続き、ここでも彼女は演技で皆を圧倒した。彼女は周りから浴びせられる拍手を不思議に思ったのか、隣に立っていた猪狩に向かってあの拍手は一体なんなのと聞いた。猪狩はモエコにみんなお前の演技に拍手しているんだと答えた。するとモエコは目をカッと見開き恍惚に身を震わせて「ああ!そうなのね!みんな褒めてくれてるのね!ああ!愛美ちゃん!みんな誉めてるよ!私達を誉めてるよ!」と歓喜の声を上げた。
ああ!彼女は今栄光の絶頂であった。羽ばたき出した蝶が好奇心の赴くままに花を求めて飛び回ろうとするように、モエコもまた芸能界という森を全身女優という栄光を求めて無邪気に飛び回ろうとしていた。しかし自然の森には常に危険が待ち構えているように、芸能界という森にも自然と同じぐらい、いや自然より遥かに大きな危険が待っている。その危険は今、成虫になりたてのモエコのそばにいた。ああ!南狭一という蝶好きのイモリ野郎が!
猪狩は南狭一が先程から撮影の最中ずっとモエコをガン見しているのに気づいていた。演技中でさえモエコにアピールしていたぐらいなのだ。気づかぬわけがない。今、スタッフが次の撮影の準備のためにカメラを入り口に移動してセッティングをしている時も欲情を全開にしてモエコをガン見していた。ああ!あのものすごい顔したマネージャーでさえコイツを抑えられないのだろうか。
南とモエコのシーンの収録は殴られた達夫を愛美が介抱するところを撮って終了する。この撮影が何事もなく終われば今日は南とさよならだ。今のところモエコは南狭一に靡いている様子はない。モエコは南など全く見ず早く撮影を始めろ、でないと私と愛美ちゃんは死んでしまうと私に喚いてるぐらいだ。猪狩はそのモエコの態度を見て、南と出くわした時のモエコの挙動から感じられた不安が全て杞憂だったと分かって安心した。まあ、考えて見れば当たり前ではないか。演技することしか頭にない天性の女優に南ごときバカアイドル等眼中にあるわけ無いではないのだ。今のモエコならばこの撮影の後で撮るあのシーンも、そして明日の南とのあのシーンも軽く乗り越えられるだろう。まもなくしてスタッフが撮影再開の号令をかけた。猪狩は椅子から立ち上がったモエコに最後まで演じ切れよと声をかけた。するとモエコはあ?と呆れたような顔をして「このモエコに向かって演じ切れよ?アンタ何様のつもりなの?モエコは女優火山モエコなのよ!そんじょそこらの女優とはわけが違うのよ」と言うと彼に背中を向けてライトが輝く方へと歩き出した。
そうして再び撮影が始まった。客に連れ去られた達夫を追って外へと飛び出した愛美。達夫は店の入り口の脇で一人倒れていた。どうやら悪友はすでに店から逃げ出してしまったらしい。達夫は苦痛に悶えその腫らした顔を歪めて呻いた。スタッフの間からそれを見た猪狩は南のその大げさな傷のメイクと演技に腹がたった。きっとコイツはモエコの気を引くためにこんな演技をしているのだ。しかしそんな見え透いた演技でモエコを騙せるわけがない。モエコは女優になるために生まれてきた本物の女優なんだぞ!貴様ごときに堕とせる訳がないのだ!モエコ演ずる愛美はその達夫にハンカチと万札を投げつけて言い放った。「これ持ってさっさと帰んな!ココはアンタみたいな素人が来るところじゃないんだよ!」だが達夫は立ち上がらない。寝たままで愛美をじっと見つめていた。自分を見つめる達夫の視線に戸惑う愛美。その愛美に向かって達夫はつぶやいた。「君、孤独なんだね」達夫の口から思わぬ言葉を聞いた愛美は思わず目をそむけた。達夫は体を起こして愛美に向かって熱い目で語りかける。「僕わかるんだよ。君の孤独が、君の寂しさが!」「アンタ何言ってんだい!」
台本ではここで達夫はここで体を起こして愛美の手を握ってこう言うのだ。「だって……だって君は僕と同じだから!」そこに突然雨が降り注いで二人は雨の濡れたまま立ち尽くす。これがこのシーンの最後のはずだった。しかし、南の奴は「だって……だって君は僕と同じだから!」と台本の台詞を大袈裟に叫んでわざとらしく泣きながらなんとモエコを思いっきり抱きしめたのだ。モエコはいきなり抱きしめられたショックで目を剥いたまま棒立ちになってしまった。しかしこの南の演技に名を借りたセクハラ行為を誰も止めず、スタッフは予定通り雨を降らし、雨降る中南はずっとモエコにベッタリと貼り付いていたのだった。
ああ!肩を丸出しにしたトップスのモエコをシャツ一枚の南がずぶ濡れになりながら濃厚接触している。しかし何故か撮影は止まらない!おいお前らなんで撮影を止めないんだ!コイツは台本を無視してモエコに濃厚接触してるんだぞ!南はモエコを無理やり抱きながら相変わらず大げさに泣きまくっている。おい、あのものすごい顔したマネージャーは何をやっているんだ!お前のバカアイドルがオイタをしているんだぞ!だが、ようやくここで監督のカットの声がかかった。カットの声がかかると猪狩はすぐさまタオルとコートを持ってモエコの元に駆けつけた。同じようにあのものすごい顔した女マネージャーも南の元に駆け寄っていた。猪狩は南のマネージャーに向かって会釈したが、彼女はあのものすごい顔で私とモエコを睨みつけて南を引っ張っていった。南は連れ去られている時、振り向いてモエコの方振り返りウィンクなんかしやがった。
猪狩は呆然としているモエコに声をかけたが、彼女はうんともすんとも答えなかった。完全に我を見失っているようだった。モエコは体を震わせていたがそれは明らかに寒さのせいではなかった。