
《連載小説》全身女優モエコ 芸能界編 第三十五話:モエコ号泣する!
前話 第三十四話:栄光と賞賛の影で 次話 第三十六話:モエコ復活!
スタジオを出て家路に向かう途中でモエコが急に人のいない所に車を停めろと言い出した。猪狩は何事かとバックミラーを見たが、モエコがそれにすぐに気づきバックミラーをずらせと怒鳴ってきた。それを聞いて猪狩はすぐにバックミラーをモエコが見えない方にずらすと近くの人気のない裏路地に停めた。その瞬間、車中にモエコの痛ましいほどの絶叫が鳴り響いたのだった。モエコは黒いコートに身を隠して全身を震わせて泣いていた。猪狩は運転席でモエコを鳴き声を聞いて身を震わせた。
ああ!たった十七歳の少女が、女優として生きるためとはいえ、あまりにも酷い犠牲を払ってしまったのだ。一生取り戻せぬ貴重な宝物を。その時猪狩はふと温かみを感じたのだが、その瞬間彼はモエコがソファーを間にして自分に抱きついていることが分かったのである。モエコそのままで猪狩に抱きついたまま「見ないで!」と叫んだ。だが彼は一瞬見てしまったのだ。泣き腫らした表情のモエコのあまりに無防備な表情を。モエコは感情をぶつけるように運転手席の猪狩を締め殺さんばかりに力一杯抱きついていた。彼は意識が遠くなるのを感じながらこのまま自分が絞め殺されてもモエコの悲しみが癒えるならそれでもいいとアホな事を考えた。
猪狩はモエコを連れてマンションに戻り玄関のベルを鳴らしたが、すぐにコートを羽織った真理子は真理子が迎えにきた。真理子はモエコが帰ってモエコを見て安心したようで私も仕事から帰ったばかりなのと笑顔で話しかけてきたが、モエコの表情を見てすぐに真顔に戻った。真理子は一瞬にしてモエコが何をしたかを察したのである。モエコはその真理子に向かってありがとうと言いそれから「真理子のおかげで全部できた。モエコちゃんと演じられたよ」と言って泣き腫らした目でまた泣き出した。真理子そんなモエコに「モエちゃん頑張ったね」と声をかけそして優しく抱きしめた。猪狩は真理子にモエコを託した。モエコに本当の意味で安らぎを与えらえるのは真理子しかいなかった。自分ではモエコに対して何も出来なかった。それはモエコが死ぬまでそうであった。
ああ!皆さんの中にはあの全身女優火山モエコがこんなにまで人間らしい女であったのかとビックリするかもしれない。役のために人まで殺しそうな、役のために平気で飛び降り自殺しそうな、そんな恐ろしい全身女優火山モエコにもまともな人間時代があったのかと信じられないと思っているだろう。ああ!しかし人間が子供から大人になるようにモエコにもまともな子供時代があった。だが彼女は他の人間のように大人ではなく女優になろうとしていたのだ。その願いは叶い、女優となった彼女は女優として生きるために徐々に人間らしい部分を捨てていった。だけどこれは強く言っておきたい。この時までのモエコは、あの事件が起こる前の彼女はまだ普通の少女だったのだ。
翌朝突然事務所から電話があった。電話をかけてきたのは社長の鶴亀満五郎であった。
「おい、猪狩。お前昨日モエコがえらい事しでかしたんやて?テレビ局は蜂の巣突いたような大騒ぎや。さっきプロデューサーから電話あったんや。『鶴亀の旦那はんワシもう眠れへんねん。目を瞑ると素っ裸のモエコちゃん浮かんでくんねん。ええ歳なのに終いや。こうなったらモエコちゃんの出番追加するしかあらへん。海老島はんも蟹谷はんもそれから南くんも事務所通さんでこっそりワシに直接モエコちゃん出しとうてって頼んでくるねん。だからモエコちゃん今すぐスタジオに頼むわ!』ちゅうわけや。というわけやから今からすぐモエコ連れてスタジオに行くんやで。ええな!」
プロデューサーの奴あのベッドシーンを見てスケベ心起こしやがったな!まだモエコにベッドシーンやらせる気か!この最低のどクズ野郎め!猪狩は恐れていた事態が起こった事に目の前が真っ暗になった。猪狩は昨夜の号泣していたモエコを思い出して義憤に駆られて思わず受話器に向かって叫んだ。
「社長!プロデューサーから昨日のこと聞いたんですよね?あれを十七歳のモエコがどんだけ辛い思いしてあれをやったか想像できますよね?何が出番が増えたからってスタジオいけですか!またモエコにベッドシーンやらせる気ですか!南も蟹谷も海老島もみんなモエコの体を狙っているんですよ!出番が増えたなんて喜べるはずがないでしょ!」
「コラぁ!誰に向かって口聞いとんねん!どんな理由があろうが仕事が増えたんやぞ!お前まさか三日月との乱闘事件忘れてへんよなぁ。あの賠償金まだ全然払てへんのやぞ!モエコに仰山稼いでもろて早う払わなあかんのや!向こうから仕事くれるちゅうのにいらんて断る奴なんか芸能界じゃやっていけんのやぞ!」
「このドスケベ野郎!アンタらはやっぱりモエコを性上納させる気だろ!モエコをお偉方のおもちゃにさせてアンタはいくらもらうんだよ!言ってみろよ!いくらだよ!」
「何が性上納やボケ!思い込みで勝手に人判断すんなや!これもモエコをスターにしたい一心なんや!確かに賠償金は払わなあかん!そのためにモエコにはじゃんじゃん働いてもらわなあかん!でもや、これはきっとモエコにとってプラスになるんや!あの子はあの通りお前と違って自分でしゃんと立てる子や!何があっても自分を曲げへんて強い意志があるんや。モエコやったら大丈夫や!大体あれかてプロデューサーの話やとモエコから志願したんやないか。演じるためにはそうするしかないって彼女が言ったんやろうが!」
「あれはモエコのバカな勘違いでしかないんだよ!彼女はバカ丸出して純粋すぎるから飛んでもない間違いを犯してしまったんだ!海老島だって蟹谷だって南だってみんな絶対にそのモエコの純粋さを利用して彼女を凌辱しようとしてるんだよ!俺はもうモエコにあんな事はやらせたくないんだよ!彼女の涙は見たくないんだよ!」
「ギャアギャア喚くなやこのボケっ!ワシはずっと言っとるやろ!お前が見張っとけばええんじゃ!お前はモエコの何や?マネージャーやろが!これ以上モエコを泣かせたくなかったら、命張ってちゃんとモエコを守っとけ!ええな!」
そう猪狩をどやしつけると鶴亀は逃げるように電話を切った。結局鶴亀は前に言ったような事とおんなじことをほざいていただけだった。コイツもプロデューサーと同じ。人になんでも押し付けて自分がヤバくなったらすべての責任を俺に押し付ける人間だ。猪狩は照り付ける朝日に当てられてこれからモエコを待つであろう地獄がフラッシュバックのように目の前に浮かんだのにゾッとして目を閉じた。今までは南だけに気をつけていればよかった。だが今度は三人の男に気をつけねばならなく、しかもそのうちの一人は芸能界の権力者であるのだ。南一人でさえ結局はモエコを守りきれなかった自分が三人の男相手に何が出来るというのか。再び目を開けた猪狩は部屋の窓に映る異様に澄み切った冬の空をただ茫然と見ていた。