《連載小説》ハッピーエンド作成中 インディアン・サマー その3
夫とは入院してから何度か病院の敷地内にある庭に行った。医者も夫の外出を勧めていたからだ。この日も夫は看護師に向かっていい天気だから外行ってきますと言い、私にも今から散歩に行くから部屋の外で待ってろ言って体を気遣うようにゆっくりと立ち上がった。私はその夫の動作を見てるといつも悲しくなる。あんなにシャキシャキ動く人がこんなにもゆっくりとしか動けないなんて。夫は看護師が差し出した杖をもらうと私に向かって準備がもういくぞと言ってきた。
看護師は夫と私をエレベーターのそばまで案内し下に降りるエレベーターが来て、私たちが乗り込むとではお気をつけてと手を振って見送った。夫はエレベーターに乗った途端に杖を私に差し出してお前が持ってろと言い出した。杖なしで大丈夫だという。私が危ないよと言うと夫は骨折しているわけでもないのになんで危ないんだと言い返してきた。私はまた始まったと呆れ、これ以上説得しても無駄だと思い手を出して彼から杖を受け取った。
エレベーターが一階に着いたので私たちは庭に行こうと出入り口まで歩いていたらやっぱり夫が手すりに手をついてぜえぜえいいだした。だから言わんこっちゃないと私が音楽に杖を差し出すと彼は怒ったように窓に写っている庭を指指して「あそこの木の下の空いてるベンチで待ってろ。俺もすぐに行くから絶対に場所取られんじゃねえぞ」と言ってきた。私もうめんどくさくなってわかったと頷いてそのまま出入り口へと向かった。
出入り口で私は後ろからやってきた若い夫婦とぶつかりそうになった。私たちは互いに頭を下げてごめんなさいと謝った。若い夫婦は共に私と同じぐらいの年頃で奥さんはお腹を膨らませていた。夫婦は私に頭を下げながら病院を出て行った。私は薄暗い病院の出入り口から眩しい明かりをうけて歩いている二人を見て思わず手をぎゅっと握った。私達だってああなれたかもしれないのに。ああなるべきだったのに。夫婦に続いて中年の夫婦が出てきて、それとすれ違いに老年の夫婦が入ってきた。そんな散々見慣れたはずの光景は今の私にとってはただの当てつけでしかなかった。あの人たちは私と夫が絶対に手に入れることの出来ない時間を持っている。私たちがもうじき失うであろう幸福な時間を。
私は夫に言われた通りベンチに座って夫と待っていた。夫は周りの柱とか木に手をついてゆっくりとこちらに向かってくる。その姿は健康だった頃の彼からは想像できないぐらい弱々しいものだった。夫が精神まで弱々しくなっていたらまだこの状態に納得がいく。だけど夫の精神は驚くほど変わっていなかったので、彼がこんな状況に陥っているのはやっぱり不条理としかいえないものだった。
夫がぜいぜい息を吐きながらベンチにやってきた。彼は崩れ落ちるようにベンチに座るなり思いっきり息を吐いて「まさか歩くだけでこんなに苦労するとは思わなかった」と言った。私は夫に看護師さんのいうように杖つかないからそんなに疲れるのよ、無理しないで杖ぐらいつきなさいよと注意したけど、彼は俺はまだ杖なんかついて歩く年じゃないとか口答えしてきた。全くどこまで見栄っ張りなのか。お前は毎日看護師がいる時は自分から杖を取ってるじゃないか。全くあっちこっちに良いところを見せてもしょうがないでしょうに。私はこの相変わらずの見栄っ張りぶりに本当に呆れ果てた。
ベンチに座った夫はそのまましばらく無言で晴天の空を見ていた。彼は昔から時折そうやって空を見ていた。私はそんな彼をみるたびにきっと小難しい事を考えているんだろうって思っていた。じゃあ今は何を考えているんだろう。今の彼には考えなくてはいけない事が多すぎるはずだ。だけど私には……
「こうやってポカンと空見上げるのもいいよな」と突然夫が話しかけてきた。私は珍しく頬を緩ませてこちらを見ている夫に「そうだよね」と相槌を打ってそれから少し勇気を出して「今、なに考えていたの?」と聞いた。すると夫は笑って答えた。
「別に何も考えてねえよ。ただホントに外っていいなって思っただけだよ。こうやって体が弱ってきて、思い通りに動かなくなってみるとさ。ホントに外気に触れることのありがたみがわかってきたよ」
「あなたがそんな事素直に言うなんて珍しいね」
「バカ、俺はいつだって素直じゃないか。素直すぎるから他人といつも余計な軋轢を起こしているんだろうが!」
「ああ……そうだね」
私は相変わらず夫の言葉に笑い、夫もまた笑った。
それから私たちは黙って空を見ていた。そうしていたらふいに夫がこの間売った車の事を謝ってきた。
「車のこと悪かったな。俺がこんな事になったせいで」
私は夫の謝罪に動揺して慌てて夫に「そんなのいいから全然!」と言った。すると夫はにこやかに微笑んでこう言った。
「お前、昔から旅行好きだったよな。大学時代からよく海外旅行とかしてたよな。ほら、新婚旅行で海外に行った時すごいはしゃいでてさ。この病室に飾ってある新婚旅行の写真なんか全部お前のじゃないか」
「そうだよね。あなた全く周りの景色に興味なかったよね。一人ポツンとなにもしないで立ってたし。結局買い物も食事も全部私に任せっきりだっだじゃん」
「だから最初に言っただろ?俺は旅行が下手なんだって。別に海外なんか行ったって新たな発見なんかあるわけないだろ?テレビや動画で散々見たような景色なんか見たって、違う国の違う制度の元に生きている俺たちと多少形が違うだけのホモサピエンスなんか見たって面白いわけないだろうが。……それに旅行は別に退屈じゃなかったよ。だってはしゃいでいるお前を見ているだけで楽しかったからな」
「なに?はしゃいでいる私かバカみたいでおかしかったって言いたいのあなた?」
「そうじゃねえよ。お前って妙に鈍感なとこあるよな」
「えっ?」
夫は私に向かって呆れたようにため息をつくと黙って私を見てこう言った。
「お前、暇んなったらどっか旅行いけよ。最近全然旅行してなかっただろ?」
この夫の言葉を聞いた途端いきなり風景が影に覆われたような気がした。太陽も、庭の芝も、シルクスクリーンのようなもので覆われてしまって息さえ出来ないほど胸が苦しくなった。だけど私はそれを振り切って笑顔を作って夫に答えた。
「じゃあ、当分暇にならないよね。だってこれからもあなたの面倒見なきゃいけないじゃん!」
「はは、まあそうだよな。まだその時じゃない。だけどさいつか暇が出来た時にさ……」
「わかってるよ!」
私の口調の強さに夫は黙りこんだ。私は夫にそれ以上喋って欲しくなかった。たとえエンディングまで近づいているのだとしてもそれを認めたくなかった。出来るなら、出来れば永遠にこのインディアン・サマーが続いて欲しい。それが今の私のせめてもの願いだった。
※※
私たちのインディアン・サマーは思わぬ形で突然の終わりを告げた。全く何がきっかけでどうなるかなんて本当にわからないものだ。夫が入院して三ヶ月ぐらい経ったある日彼の会社の上長が退職届を受け取りに来た。夫が会社で親しくしていた同僚や先輩はよくきていたけどこの上長は初めてだった。私はわざわざご足労いただいてありがとうございますと深く頭を下げて上長を迎えいれて夫を引き合わせた。
上長は夫から出された退職届を受け取ると残念だと口にしてそれから仕事の引き継ぎはすでに済ましてあるから安心にしろと夫に声をかけた。それから上長と夫はしばらく会社の近況やらプライベートな事について会話していたけど夫はこう言ったら怒るだろうが以外にもコミュ力があり上長によく話を合わせていた。そうして上長は私にお見舞いの品を渡して病室を退出したが、そのすぐ後だった。突然壁から上長がバカでかい声で誰かと電話している声が聞こえてきたのだ。上長は電話相手にこう言っていた。
「おい、今病院行ってきたぞ。いや、ありゃひでぇもんだ。もう死相が出てるなんてもんじゃない。まるで別人、てかありゃもうミイラだよ。見舞いに行くんだったら早く行った方がいい。でなきゃいつ死ぬかわからないからな。だけど見てもあまり気分は良くないから注意しろよ」
上長の電話は終わったらしく、彼の去ってゆく足音だけが鳴り響いた。上長の足音が聞こえなくなった時突然夫がけたたましく笑い出した。
「ハハハ!おかしいよな!俺やお前やこの病院の連中なんかより部外者の職場以外になんの交流もないアイツが一番俺の病状を理解してるんだぜ!ミイラ状態だってよ!全くその通りだ!」
夫のけたたましい笑いと共に私たちのインディアン・サマーは一瞬にして消えてしまった。今、二人の前にあるのはただ映写機もスクリーンもなくなったただ冷たい壁だけがそこにある、そんな何もない映画館のような、当たり前で残酷な現実だけだった。