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ロシア文学秘話:チェーホフとスタニスラフスキー

 チェーホフは小説家としてより戯曲としての名声が高いといわれている。彼の戯曲家としての名声はかのイプセンに並ぶほどである。そのチェーホフの戯曲を世界的に広め現在の評価にまで高めた最大の貢献者はスタニスラフスキーシステムで有名な演出家にして演劇理論家のスタニスラフスキーであった。スタニスラフスキーはその体系的なリアリズム演技の理論でロシア演劇を一変させたが、彼が演出したチェーホフの戯曲の舞台がその最大の成果であった。チェーホフのドラマを排した戯曲とスタニスラフスキーの演技するのではなく役を生きろというという徹底的なリアリズム演技論は共振するものがあった。チェーホフとスタニスラフスキーの出会いは演劇史における奇跡であった。この二人の起こした奇跡によって現代演劇が始まったのだ。

 しかしこの二人の関係は最後まで微妙なものであった。チェーホフは最初からスタニスラフスキーの演出が気に入らなかった。彼はその事を公にせず、本人にも文句は言わなかったが、親しい友人たちには度々スタニスラフスキーへの不満をぶちまけていた。

「スタニスラフスキーはリアリズムを突き詰めるためには役者には自分の演じる役を生きてもらわなきゃいかんと言って普段も衣装を着させたまんま過ごさせるそうだ。あと舞台をよりリアルにするために舞台裏で黒子に犬猫の鳴き真似をさせたりもするらしい。全く失笑ものだよ。彼はそんなバカバカしい事を本気でやっているんだぜ。無意味としか言いようがないね。いくら舞台をリアルにしようがそんな事をしたって僕の戯曲が再現できるものじゃないんだよ。逆に現実に似せれば似せるほど嘘くささが目立ってきちゃうじゃないか。あれが演劇界のホープだなんて我が国の未来が思いやられるよ。まっ、僕の戯曲は舞台には向かないんだよ。全てがそこに書かれていて舞台化の余地なんてないからね」

 チェーホフが友人たちに漏らしたこの不満は人から人へと伝わって結局スタニスラフスキーの耳に入ってしまった。スタニスラフスキーはチェーホフが自分の演出に不満を抱いていると知ってすぐさま彼の自宅に押しかけた。彼は作家自身の口から自分の演出の何が気に入らなかったのかハッキリと聞きたかったのである。

「チェーホフ、単刀直入に聞きたい。君は私の演出のどこが嫌いなのだ。僕は君の戯曲を完璧に再現するために役者に舞台の衣装を着させたまま普段も過ごさせ、さらに舞台を現実のように見せるために鳥の囀りや、犬猫の鳴き声まで入れたのだ。これは全部君の戯曲を完璧に見せたかったからなんだ。君はそれでは足りんと言うのか?」

「マエストロ。あなたのその誠実さには感謝します。私もあなたに本音でお答えしましょう。私があなたの演出に不満なのは再現度や現実感が足りないとかそういう事以前にその試み自体が間違っているのではないかという事です。あなたも舞台の演出家なら舞台が所詮書割の空間でしかないことぐらいわかるでしょう。そこでいくら現実味を出したところで却って嘘くささが目立ってしまうのです。役者に舞台の衣装を着させたまんま過ごしても役者はその役の職業なり地位についている人ではないのです。そして黒子に犬猫の鳴き真似をさせても所詮は人の声です。舞台で戯曲に書かれた世界を完璧に再現することなど不可能だと私は思うのです。いいですか?戯曲は現実の再現ではありません。私の想像の世界なのです。あなたも一旦リアリズムから離れて想像から演出を組み立てはどうでしょうか?」

 スタニスラフスキーは作家の本音を聞いて険しい顔で頷いた。

「言いたい事はわかった。舞台と現実の違いは確かに我々も深く理解している事だ。我々はそれと常に戦っているのだから。私ももう一度一から君の戯曲を読まなくてはならないな」

 チェーホフはこのスタニスラフスキーの言葉を聞いてホッとした。とりあえず彼はもう自分の戯曲を小っ恥ずかしい事をされない事に安心したのであった。スタニスラフスキーはチェーホフを舞台のリハーサルを見ないかと誘った。チェーホフはそれを快く受け入れた。

  さてチェーホフは約束通りスタニスラフスキーが運営するモスクワ芸術座の劇場に行った。チェーホフはこの間のスタニスラフスキーの態度から今度こそクソリアリズムではないまともな舞台が見れると期待を持っていた。スタニスラフスキーはその彼を劇場の入り口で出迎えそしてリハーサル中のホールへと案内した。チェーホフホールに入るとスタニスラフスキーに促されてステージへと向かいその上で稽古をしている役者たちに挨拶しようとして彼らの顔を見てみんな知らない人間であるのに驚いた。彼は目の錯覚かともう一度確認したが、やっぱり知らない人たちであった。みなどっかの田舎町の住人みたいな人たちでとても役者だとは思えなかった。しかもなぜか舞台にはほんもの犬猫や馬がいるではないか。よく見ると人も動物もなぜか怯えているようだった。スタニスラフスキーは驚くチェーホフに言った。

「チェーホフ。私はこの間の君の意見を聞いてよく考えたのだよ。確かに君のいう通り役者に登場人物の真似をさせても再現度は高くはならない。また黒子に動物の下手な鳴き真似をさせても舞台は所詮書割なんだから却って嘘くささが目立ってしまうだけだ。私は君が提示した問題をどのように解決したらいいか熟考した結果、全て本物を使う事にしたのだ。君の戯曲を完璧に上演するにはリアリズムを徹底的にするしかないと考えたのだよ。ステージにいる人間は全て私が拉致ってきた奴らだ。コイツはここで田舎で暮らしてた頃とおんなじような生活をさせている。そこの動物たちも同じ。たった三日だからステージには生活臭は全くついていないが、そのうちびっちりついてくるから安心したまえ。最大の問題は演技だが、これもしごきまくればなんとかなるだろう。まぁ動物のしごきは私じゃ無理だからサーカスの連中に任せるしかないがな。きっとこの舞台は私と君に最大の名声をもたらすだろう。究極のリアリズム。現実の完璧な再現とね。おや、君どうしたんだね?嬉しくないのかね?」

 チェーホフは怒りで拳がワナワナ震えるのを感じた。だが生まれてから一度も暴力を振るったことのない彼は無理に震える拳を抑えてキッとスタニスラフスキーを睨んだ。チェーホフは目の前の髭を整えたダンディそのものの男の自慢げな顔を見てこう思った。

 このオッさん全然わかってねぇ!

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