キャベツ、レタス、白菜
高校生くらいまでキャベツとレタスと白菜の区別がつかなかった。
と言っても、例えばスーパーへ行ってキャベツを買ってこいと言われれば間違わずにキャベツを買えるし、レタスでも白菜でも大丈夫。
本来の姿は知っている。
私が知らないのはそこじゃない。
分からないのは、
調理された状態のそれら。
全部「うす緑の葉っぱ」に見えるから。
母親はわざわざ「今日はキャベツの炒め物よ~」なんて言って出してきたりしないし、出てきたものが「何か」を考えることがなかった。
出てきたものを食べる。
美味しいなあと思って食べてる。
ただ、その材料や調理のしかたには全く興味がなかった。
その方面に脳を使うことが全くなかった。
炒められた葉っぱ、
味噌汁の中の葉っぱ、
サラダになってる葉っぱ、
それがいちいちキャベツなのかレタスなのか、はたまた白菜なのか。
高校生のころ、
ぽつりと私は母に聞いた。
「よくみんなこれがキャベツかレタスか白菜なのかわかるよね」
母は仰天していた。
そして「食べなくてもわかるじゃない!」と言った。
炒めてあろうが煮てあろうが、「そもそも違う野菜なんだからまず見た目が違う」と。その上でもちろん味も違うと。
そして「あんた いままでなに考えて食べてたの?!」ときた。
仰天したのは私だ。
調理した人間以外、区別つくやついるんか?!
ほんとか!?!?
それからの私は、食卓に葉っぱが出てくる度に母に聞いた。何度も何度も聞いた。
私「これは……キャベツ!???」
母「白菜。鍋にいれてるんだから白菜だよ」
私の間違いっぷりに、母も「こいつ本当に見分けついてないんかーヤバいな」と思ったんだろう。
そおっとサラダを出しながら「これは分かるよね?サラダにちぎってだしてるやつ。これはレタスだよ」とか先手をうって威嚇してきた。
まあ、それも分かればあっという間だった。
興味を持つということが、いかに人間の視覚に作用するか、私はこの時に初めて体験した。
いままではすべて同じ「うす緑の葉っぱ」に見えていたものが、炒めてあろうが煮てあろうが、キャベツはキャベツだし、レタスはレタス、白菜は白菜にちゃんと見えるのだ。
見た目も味も違う。母の言った通り。
こんな簡単なことが!
こんな簡単なことも!
意識しなければ見えない感じないんだ。
意識する、興味を持つってこういうことなんだ。
私はひとり納得した。
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