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【物語】青、祈る

深紅のかえでに彩られた大きな湖。
そこに大きな青い橋が架かっている。
橋を渡り切った先には、T字路。
左に進む。
そこにある、眩しい銀杏いちょうが並ぶ細くて急斜面の坂道。

俺は、今、この道を自転車で進んでいる。

ポタリ、ポタリと汗が止まらない。
晩秋の風さえ、今は心地いい。

足が引き攣れて痛い。
しかし、足を止めるわけにはいかない。
ペダルを漕ぐ足を止めたら、すぐに後ろに戻されるだろうから。

前に、前に進む。
秋の眩しい日差しの向こう、坂道の頂上に赤い鳥居が見えてきた。

つうっと、こめかみに溜まっていた汗が顎まで流れてきた。
それを、右肩で乱暴にぬぐう。
ハンドルからは手を離さない。

俺はぐっと体を起こし、たち漕ぎになった。

汗でハンドルを握る手が滑る。
心臓がバクバクして痛い。

坂道を飾る銀杏いちょうも視界の隅に追いやって、筋肉が引き攣れる足を動かして、流れ落ちる汗をそのままに進んで、やっと、銀杏いちょう並木を抜ける。

燦燦と輝く太陽の光と、
くらくらするほど明るい銀杏いちょうのきらめきを浴びながら、俺は赤い鳥居をくぐった。





<ここで緊急ニュースです。神湖市かみこし神湖神社かみこじんじゃに植えられていた青い薔薇ばらが、開花をしました。>

晩御飯のカレーを食べていたら、テレビから地元の名前が聞こえてきた。なんとなくテレビの方を向いたら、近所の神社が映っていた。

大きな池がある神社。今が見ごろの銀杏いちょうに覆われた池のほとりに、青い花が咲いていた。

ピンクのワンピースを着た女性のアナウンサーが、興奮気味に青い薔薇ばらに近づく。

もう神社の中は日が落ちている。昼間は美しく咲いていたであろう青い薔薇ばらは、夜の闇に沈んで、画面越しだとくすんで見える。アナウンサーは一生懸命ライトで青い薔薇ばらを照らすが、それはただ、不気味な神社を浮かび上がらせるだけだった。


冷え切ったカレーを口に入れる。


あの青い薔薇ばらは、俺の学校に寄付されたものだった。
有名な植物学者が、この地域の出身だった縁で、栽培に再興した青い薔薇ばらの苗を寄付した。それは、俺たち中学生の手で植えられたのだ。

―――咲いたんだ、あの花。
なんだか胸が締め付けられた。

―――親切な研究者のせいで、学校行事が一個増えた。
青い薔薇ばらの苗を植えに行った日、神社に続く道のあまりの険しさに、そんなことさえ思ったのに。


カレーを食べる手を止めた俺は、一人ぼっちの食卓でぼんやり思った。

―――親父が気にしてたな、あの青い薔薇ばら


意識不明のまま病院にいる親父を思う。
親父は3日前、湖に落ちた子供を助けに飛び込んで、そのまま目を覚まさない。おふくろは連日病院に止めって親父の様子を見ている。

親父もおふくろも、青い薔薇ばらを気にしていた。

俺はキッチンの冷蔵庫を見た。
そこに貼られたカレンダー。
今日は日曜日。明日は祝日の月曜日で予定なし。

俺は、冷めきったカレーを一気に掬った。





汗だくになって、神聖な鳥居をくぐった俺は、境内にある池に向かう前に、お参りをしに本殿へ向かう。

昨日あれだけニュースになっていたのに、なぜか境内に誰もいなかった。
まあ、青い薔薇ばらを見るのにはちょうどいい。

綺麗に整えられた境内を歩き、銀杏が浮かべられた手水で手を清める。汗だくになった体に、ひんやりとした水が気持ち良かった。

雑に服で手をぬぐって、木造の社にお参りする。
ポケットから5円を取り出して賽銭箱にポンと投げた。

二礼二拍手一礼

俺は、親父からしつこく教えられた作法で、
何も祈らず、ただ手を合わせる。
そして、くるりと社に背を向けた。



祈ることが目的じゃない。
俺は青い薔薇ばらを見にきたのだから。




大きな銀杏がそびえたつ池のほとり。そこに、ひっそりと青い薔薇ばらが咲いていた。

近くによると、薔薇ばらの華やかな香りを感じる。

池のほとりに咲く青い薔薇ばらは、
秋の空よりも濃く、
池の水より澄んでいた。

静かだ。
まだ、境内に誰もいない。


俺は家から持ち出してきた親父のデジカメを青い薔薇ばらに向けた。
そして、カメラのレンズを覗いた。


そこに、青い薔薇ばらはなかった。




代わりに、青い薔薇ばらが描かれた十二単を纏う、少女がいた。
地面に付くほど長い黒髪に、湖の底のような深い碧の瞳。少女がこちらを見て、ニコッと笑った。



びっくりして思わずカメラから目を離した。
そこには、先程見ていた青い薔薇ばらがあった。

うそだろ?

カメラを見つめる。
恐る恐るレンズ越しに青い薔薇ばらを見る。

いたずらに成功した、というような満足げな表情を浮かべた少女が腰に手を当てて偉そうになっていた。

『どうした小僧。驚きのあまり声も出ぬのか?』

鈴を転がすような愛らしい声から、いやみったらしい言葉が漏れた。

心臓はドッキドッキしている。
が、少女にからかわれるのは嫌で俺は冷静を装った。

「あんた、誰?」

少女はにんまりと笑った。

『さあ?』


誰もいない境内。
目の前にいるデジカメのレンズ越しにしか見えない少女。冷たい汗が、俺の背に伝った。

銀杏いちょうが秋風に吹かれて揺れる。
そういえば、これほど大きな銀杏いちょうがあるのに、ぎんなん独特の香りがしない。

辺りに漂うのは、華やかで、くらくらするような薔薇ばらの香り。


秋さえかき消す薔薇ばらの香りの中で、少女が口を開いた。

『そなたの願いを叶えよう。』


何を考えているのか分からない笑顔のまま、少女が続ける。



『心の奥底から願うものを一つ、叶えてやろう。』



ぶちっと、俺の中で何かが切れた。

救えるなら、
願いを叶えてくれるなら、
なんで最初から叶えてくれないんだよ。

「じゃあ、今年俺受験だからさ。神湖かみこ高校に合格させてよ。」

投げやりに俺は言った。
ほら、願ってやったぞ。

本当はわかってる。
今、俺が本当に望むものがなにか、なんて。
それでも、俺の中にある密かな対抗心が本当の願いを外に出すまいと食い止める。


―――君のお父さんが助けた子、どうやらこの神社に来る途中だったらしい。

近所の人が教えてくれた言葉が頭を過ぎる。
歯を食いしばる。

―――この神社にお参りに来るついでに観光していたら、湖に落ちたんだってさ。

食いしばった歯が、ぎりっと嫌な音を立てた。


言い伝えによると、
日照りが続き人々が飢え始めた時、この湖に住まう神様が大粒の涙を流した。その涙が湖になり、この地域の人はこの神を祀って神社を建てた。
それがこの、神湖かみこ神社の言い伝えだ。

木枯らしが俺の前髪をかき分ける。
うっとおしい薔薇ばらの香りが不快だ。


なにが言い伝えだ。
なにが神様だ。
そんなことのために、親父が死にかけてんのかよ。

助けてもくれないのに、何が神様だ。

俺はカメラを下した。
こいつが何者かなんて知らない。
八つ当たりだったとしても構わない。

ただ、人を助けた親父を助けてくれない全てに、俺はブチ切れてるんだ。

池のほとりに咲いている青い薔薇ばらを見る。

青い薔薇ばら
お前はいいよな。
「奇跡」を起こせるんだから。

カメラを握りしめる。

神様かな?
あんたはいいよな。
気まぐれで人を救えるんだから。

気まぐれな奇跡に縋るしかない俺たちを見て、
楽しくて嘲笑ってんだろ?


その時、
ぽつっと、頬に水を感じた。

雨?



空を見上げる。
しかし、秋晴れの天気は変わっていない。

もう一度、カメラを覗き込んだ。

少女は顎に手を当ててじっと考え込んでいた。なんだ、泣いてるわけじゃなかったのか。俺は自分の早とちりを少しだけ恥じた。

秋風に揺れる十二単。
その袖には青い薔薇ばらと、湖のような水面が描かれている。

何度見ても、この少女が何者なのかわからない。
ただ、彼女が何者でも祈る気分になれない。

祈って救われるのなら、
3日間何も食べずに両手を握り祈るおふくろを、
なぜ救ってくれないのか。

人を助けて意識不明になった親父を、
なぜ救ってくれないのか。

少女を見ると、怒りという靄が心にかかる。
少女を見ると、理不尽さに震える心が全てを拒絶する。


早く帰りたい。

そんな俺に構いもしないで、少女はサラリを言葉を紡いだ。


『ああ、すまんな。』
なんの気負いもなく、無責任でさえあるような口調で。

『祈ってもらわなければ、叶えてやれんのだ。』
誰かの一生を背負っていると思えないほど気安く。


『ワラワは、ここにしかおれんのでな。ここにきて祈ってもらわねば、叶えてやれぬのじゃ。』


少女が湖のような碧い瞳をこちらに向けた。
笑っているのに、泣き出しそうな水面のような瞳。



なんだ。



祈っているのは俺だけじゃないのか。



木枯らしが吹く。
銀杏いちょうの葉が天にあがる。
太陽に反射して銀杏いちょうがきらり輝く。
その光は、真っ直ぐな線を描いた。

まるで真昼の流れ星のような光。
その光に、願いを込めてもいいのだと言われた気がした。


『心の奥底から願うものを一つ、叶えてやろう。』



先程と同じ言葉を、少女は繰り返した。
笑顔のまま、少女は俺を見る。

少女は言わない。

〈願って。〉 なんて言わない。
〈助けてと言って。〉 なんて言わない。

でも、俺には聞こえた。


〈助けたいんだ。〉  そう祈る声が。



濃い薔薇ばらの香りを感じた。



からからに乾いていたはずの目から、涙がにじんできた。

ぽとん、と地に落ちる。

地面に水玉模様が浮かんだ。



「親父を、、、、助けて。」



次の雫が落ちる前に、強い風が吹いた。



「その願い、聞き届けた。」













その日、植物状態一歩手前だった親父が目を覚ました。
その日、奇跡の青い薔薇ばらが全て散った。
その日、この地方には珍しく雪が降った。

湖は凍り、春まで溶けなかった。


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