【物語】いかにして席を譲るか
バスが止まった反動で、体がガクッと傾いた。
前につんのめりそうになったのを、足で支える。
秋の行楽シーズン真っ只中の日曜日。時刻は午後2時39分。バスは満席だ。私は1番後ろの席の真ん中に座って、うたた寝していた。
「寺町に到着致しました。お降りの際はお足元にご注意ください。寺町に到着致しました、、、」
寺町か。
銀杏並木で有名な商店街がある町だ。
私が降りる予定の停留所は、葉山四丁目。
頭の中で、到着予定時刻を確認する。
寺町の次は、大杉神社の近くにある、大杉。
そしてその次が、住宅地が広がる、葉山一丁目。
さらにその次が、葉山四丁目。
あと15分くらいかな?
「ドア、閉まります。」
プシューという独特な音がして、バスのドアがしまった。ゆっくりと、バスが出発する。
銀杏並木が広がる商店街を、たくさんの人が歩いていた。お祭りでもやっているのか、風船を持った子供がちらほら見える。
銀杏並木とぽわぽわ浮かぶ風船と人混みが通り過ぎて、暗いトンネルに入った。私は、心地よいバスの振動を感じながら、再び目を瞑った。
まぶたの裏に光と影が交互に浮かぶ。
いくつかのトンネルを抜け、次のバス停にたどり着く。
プシューという音とともに、杖を着いたおばあさんが1人、入ってきた。優しげなおばあさんは、乗車券を受け取りつつ、周囲を見渡している。
空いている席がないのか。
近くにいる人が席を譲るだろうと思ったが、みんな昼寝している。秋の日差しはポカポカしていて、長閑だからなぁ。
よし、席を譲ろう。
そう思って腰を上げたその瞬間、バスのドアが閉まった。おばあさんが、私に背を向けて近くの手すりにつかまる。そして、そのまま発進してしまった。
おばあさんは足腰が弱いのか、バスが曲がる度によろよろと、たたらを踏む。
(どうしようか。)
私は頭をめぐらせた。
(おばあさんは、動いているバスの中を手すりに掴まっているのがやっとだ。バスが動いている間に座らせるのは危ない。それに、私がいるのは1番後ろの席。この席にたどり着くには2段の段差を乗り越えなくてはいけない。となると、バスが動いている間は厳しい。ならば、信号で止まった瞬間に声をかけた方がいいな。すぐバスが動くと危ないから、赤信号で止まったばかりの時にしよう。)
大きな杉の木で有名な大杉神社を見ることも無く、私は頭の中で席を譲るシュミレーションをする。
私はバスの進行方向をじっとみた。
運転席と支払い機の向こうを睨みつけた。正直、信号なんて1番後ろの席からじゃ見えない。しかし、気持ち的に早く席を譲りたかった。
こんな時に限って、信号は青が続く。おばあさんが乗ってきてから4つの信号、その全てが青。
こんなことがあるのだろうか。
少し大きな道路を、何度か左折しながら、バスが住宅地へ向かっていく。
緩い坂道になった。
葉山町に入ったのだ。
バスが葉山一丁目のバス停に着くのが先か。
私が信号でおばあさんに席を譲るのが先か。
信号と勝負しているような、意地になっているような気分で、私は1番後ろの先に座り続けている。
せっかくバスに座っているのに、席を譲るために、体は常に立ち上がる準備をしている。だから、座ってても体は一向に休まらない。
ジリジリと額に汗が滲む。
秋の日差しによる暑さのせいだろうか。
それとも、この謎の緊張感からだろうか。
ふと、バスがゆっくり減速している気配を感じた。どうやら、前方の信号が赤に変わったらしい。
バスが完全に停止するのを待つ。私は腰を浮かせた。秋の日差しが、ゆっくり傾いてバス全体を黄色く照らした。
ゆっくりゆっくり減速して、バスが止まった。
今だ!!
「「「「「「「「あの、、、、、」」」」」」」」
──────え??
たくさんの声が重なった。
私が声をかけて立った瞬間、バスに座っていた全員が立ち上がり、おばあさんに声をかけたのだ。
バスに乗っていた全員が、目を丸くして顔を見つめあった。
ビジネスバッグを膝に乗せて昼寝していた男性も、イヤホンをしてゲームをしていた男の子たちも、本を読んでいた女性もみんな立ち上がっていた。
「あ、ありがとうございます?」
おばあさんが、誰に感謝してどこの席に座ればいいのか分からないまま、私たちの声に応える。
私がタイミングを計っていたように、みんながタイミングを測っていたらしい。
私たちは、なんだかこそばゆいような、気まずいような雰囲気のまま、どうしようかとオロオロする。
すると、おばあさんの近くで居眠りしていた男性が、ふと手を挙げた。
「良ければ、席が近いので私が譲ります。」
そうして私は、席を譲ることを譲った。おばあさんが席に座った瞬間、バスが発進した。
くすくす、くすくす
バスの中に、堪えきらない笑い声が響く。
ははは、はははは!
誰かが堪えられなくて、笑いだした。
ははは、ふふふ、くすくす、なんだこの状況〜、みんなで譲り合ってたし〜、くすくす、ふふふ、ははは
「みんなで譲り合っちゃいましたね。」
私の隣に座っていたレジ袋を持った主婦が、チャーミングな笑顔で私に話しかけてきた。
「綺麗に声揃いましたね。」
知らない女性と、顔を見合せて笑った。
ポカポカ陽気の秋の空。
笑い声を乗せたバスが、住宅地を走っていった。