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【物語】共演者

大きなピアノが置かれているステージ。
そのステージは、スポットライトと月光に照らされている。丸いステンドグラス製の天井窓から、月光が差し込む。月光を受けたステージは、神秘的で小さな物音ひとつ許さない静謐さを秘めている。
客席には誰もいない。私の他には誰もいない。
今にもコンサートが始まりそうなほど会場は整っている。

コンサートホールの責任者である私は、明日行われる有名なチェリストの復帰コンサートのために、ステージの最終チェックをしていた。
もう大丈夫だろう。コンサート会場を後にしようと振り向いた時、気づいた。

私の後ろに、少女がいた。
白いワンピースに白い靴。背中には大きな荷物を背負っている。形から察するにあの中に入っているのは、チェロだろう。
驚きつつ、私は考えた。今日、コンサート会場は定休日のはず。どうやってこのコンサートホールに入ってきたのだろう。

私が考えていると、少女が口を開いた。

「少しだけ演奏させてくれませんか?」

大人びた少女を見て、私はまた考えた。

明日の準備はもう終わった。
自分の楽器をもってわざわざここに来た少女を追い返すのは、酷だろう。

特別に10分間だけと約束して、ステージを貸した。本来は断るべきだ。しかし、出来なかった。
少女の瞳に、必死さがあったから。

「ありがとうございます。」

少女は私に告げると、ステージへと歩みを進めた。こつこつと足音を立てながら、ピアノが置かれたステージに少女は上がった。

まだ寒い冬。
コンサートホールの暖房は先程切ってしまった。少女に暖房を入れるか聞いたが、いらないと断られた。

凍えそうなほど寒い。
深呼吸すると、肺に冷たい空気が入って、つきんと痛む。

少女は寒さを気にしていないようで、背負っていたチェロを取り出して、丁寧にチューニングを始めた。

最初は1音。
それに合わせて重音が鳴り響く。

まるで1つの曲のように流れるチューニングだった。チェロの深く豊かで優しげな音が、寒いコンサートホールを包んだ。

ふと、音が途切れた。
音の調整が終わったようだ。

少女は深呼吸をして、目をつぶった。
すっと息を吸う。

一瞬の間。
その後。

チェロから歌が零れてきた。

願うような、
許しを乞うような、
許していると返事をするような。

神々しく、
切なく、
温かい曲だ。

会場に響く、ゆったりとした旋律。
会場を震わせるビブラートはまるで泣いているように震えている。
そう、泣いているのだ。
泣きながら歌うチェロ。

無伴奏。
たった1台のチェロの独唱。
心を震わせる音楽が、そこにはあった。


静かに静かに、
惜しむように、
最後の音が響いて、
消えた。

私は少女の観客として、拍手を捧げた。
少女は、私のもとにきて丁寧に頭を下げると、

「ありがとうございました。」

そう告げて帰っていった。


翌日。
チェリストの復帰コンサートが開かれた。

今回演奏する女性チェリストは、数々のコンクールで優勝し、プロデビューするなりコンサートチケットが完売するような、大人気チェリストだった。彼女の物静かで優しい人柄も、多くの人から愛された理由だろう。

そんな彼女は2年前、事故で大怪我をした。
それだけではない。
彼女の心が打ち砕かれたのは、大事なチェロを失った事だった。


交通事故だった。
信号無視した車が、交差点で左から彼女の車に突進してきたのだ。
チェリストを守ったのは、彼女の左側に置かれていたチェロだった。
頑丈なチェロケースとチェロが、左から追突してきた車とチェリストの間でクッションの役割を果たした。

事故で意識を失ったチェリスト。
彼女が病院で目を覚ました時受け取ったのは、本体を失ったチェロの弓だった。

その後、彼女には想像を超える絶望が待っていたと、ある記事で読んだ。

上手く動かない腕。
長く使っていた相棒の喪失。
体が回復しても、思い描いている音が出せない苦悩。
スランプに陥ったチェリストは事故から半年後、引退した。

それが3ヶ月前までの話。
何がきっかけだったかは分からない。
しかし、引退していたチェリストが、もう一度復帰してほしいというファンの声に応え、今一度ステージに上がる決心をしたという。
今日は、その復帰記念のコンサートだ。

チケットが1時間で完売したコンサートは、大盛況だった。

豊かな音色。
一糸乱れぬ連符。
伸びやかなビブラートは、会場全体をふるわせて聞く人を魅了した。

コンサートの中盤。
チェリストの女性がマイクをもって話し始めた。聡明さが伺える透き通るような声で、彼女は自身の体験を話した。

≪2年前、私は事故で大事な相棒を失いました。プロとしてのデビューが決まった時に私の元に来た、唯一無二の相棒でした。プレッシャーに押しつぶされそうになった時、あの子を撫でると勇気が出ました。それだけではありません。私は、初めてのコンサートの時、ステージ上で頭が真っ白になったことがありました。その時、あの子にあった小さな傷が、私に紡ぐべき音を示してくれました。あの子じゃなければ、私はチェリストになれませんでした。あの子が、、、≫

コンサート会場に、静かな嗚咽が聞こえてきた。
観客の中には、そっとハンカチで目をおさえる人もいる。

チェリストはもう一度顔をあげた。

≪あの子が、私のチェロが壊れた時、私の心は折れました。そして、チェロを辞めました。もうどんなに練習しても、私が出したかった音は出ない。もう私が満足できる音なんて出せない。そう思ったからです。もうチェロに触れることはないと思っていました。だから、事故のあと、あの子の弓はずっと物置の奥に隠していました。そうやって、チェロから離れていきました。3ヶ月前までは。3ヶ月前、私が物置小屋を通りがかった時、ことりという音を聞きました。物置小屋をそっと覗くと、あの子の弓が、キラキラと埃を反射し煌めきながら、床に落ちていました。あの子の弓を見た時、声が聞こえた気がしました。「まだ弾かないの?」という、純真無垢に私の音を待つ声が。≫

チェリストの、深く息を吸う音が聞こえた。

《一度だけ、あの子のために弾かせてください。私が大好きで何度も何度も弾いた曲を。あの子の弓と共に。》

会場内に拍手が起こる。

拍手が鳴りやんだ会場の中心で、チェリストが弓を持ち替えた。先程とは違い、小さな傷がところどころについている。きっとあれが、引退前に使っていたチェロの弓なのだろう。
チェリストの女性が深呼吸をして目をつぶり、演奏が始まった。


最初の音が響いた瞬間。
私は涙が零れた。


願うような、
許しを乞うような、
許していると返事をするような。

神々しく、
切なく、
温かい曲だ。

奇しくも、昨日ここで少女が弾いた曲と同じ曲だった。
奇しくも、昨日ここで少女が弾いた時刻と同じ時間だった。

月光が降り注ぐ、舞台の上に立つチェリスト。
その左側に、白いワンピースの少女が見える気がする。

音色の違うチェロの2つの歌声が聞こえる。

愛しいあなたに届きますように。
ありがとう。


曲名:『Amazing Grace』





この度は、こちらの作品にお越しくださりありがとうございました。

この物語には、まだ舞台裏がございます。お時間ありましたらご覧いただけると幸いです。

追記
10月10日、表紙を変更致しました。

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勿忘草(わすれなぐさ)
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