【物語】悪魔は消えて憧れだけが遺された
これは静かな公園と一人の少年だけが覚えている、
己を失った男が遺した一曲の物語。
霧のような雨の中。
森のような公園を俺は歩く。
ふらふらと歩く。
元が何色だったかも思い出せないくすんだ服は、水を吸ってだんだんと黒く、重くなっていく。
むき出しのヴァイオリンを手に、ぼやけた霧の世界の中を、ふらふらと歩く。
よそ様から見たら、俺はさぞ不気味だろう。
俺自身、俺が不気味だと思う。
―なぜここにいるのか。
―なぜヴァイオリンを持っているのか。
―そもそも、俺は誰なのか。
俺は思い出せない。
公園だけでなく、記憶にも霧がかかっているようだ。
何も思い出せない。
いや、一つ覚えていることがある。
昔、ある男が魂を売った。
誰に?
―悪魔に。
魂を売った男は、一曲弾いて、、、、
それから、どうしたっけな。
思い出せない。
細かい雨の粒子が、少しずつ俺の髪を濡らす。手に持ったヴァイオリンは、雨に濡れて深みを増したように輝いている。
鈍く光るヴァイオリンを見て、俺は思った。
弾きたい。
あの曲を弾きたい。
たまらなくなって、俺は公園の真ん中でヴァイオリンを構えた。
俺には俺の記憶が無い。
それなのに、左手は自然と弦をおさえ、右手は自然と弓を構えた。
手が、体が覚えている。
一曲だけ。
俺の中に、一つだけ遺されているものがある。
音もなく降る雨の中で、俺は息を吸った。
そして、止める。
霧がかかった公園で、小さな悲鳴が響いた。
悲鳴が聞こえた。
公園にヴァイオリンの霧を裂くような音が響いた。
ぼやけた視界と細かい雨の中。
息苦しい風景の中を、ヴァイオリンの高音が駆け抜ける。
木々が草花がブランコが、
ヴァイオリンの音に耳に傾ける。
どこにいたのだろうか。
何かに魅入られたように、霧の向こうから人が集まってきた。呼吸をひそめて、足音さえも立ててはならないというように、静かに静かに、人が集まる。
ヴァイオリンは、集まってきた人々を気にすることもなく、鳴り続ける。
時に、情熱的に愛を告げるように、
時に、心が躍って仕方ないのだとはしゃぐように、
時に、あまりの切なさにもがき苦しむように、
ヴァイオリンは、叫ぶ。
悪夢のような霧は、まだ晴れない。
ああ、この音だ。
俺が魂を売ってでも、この手で弾きたかった曲は。
俺が、、、
―俺が?
俺は、魂を売った男なのか?
それとも、俺は悪魔なのか?
俺は、誰だ?
霧が深くなる公園で、俺は俺自身の輪郭さえぼやけていく。
それでも、指は動く。
次の音も知らぬまま、ただ指だけが先に進む。
俺を置き去りにしたまま、次の旋律へと進む。
曲は、メインテーマに戻ろうとする。
しかし、もう戻れはしない。
リズムも強弱も変わったメインテーマは、最初の音とは決定的に違う音だった。
曲が進むうち、演奏者の心も変わったのだ。誰も気づかぬうちに変質した心では、もう最初の主題に戻れない。
曲は止まらない。
様々な感情を乗せた音は、重音になる。
複雑に絡まった心が絡み合って、連符になる。連符の速さに、音の波が空気に乗って観客を飲み込みはじめた。
男は荒々しく弓を振るう。
雨で濡れた髪を乱しながらそれでも弓を振るう。
雨の重さに耐えきれない前髪が、男の顔に張り付いて、観客から男の顔が見えない。
それでも観客は増え続ける。
男が何者なのかも知らず、観客は熱中する。
ああ、また悲鳴が公園に響き渡った。
熱に浮かれた一人の観客が、指笛を吹く。隣の観客が手をたたく。嵐のような観客の熱狂を伴奏に、演奏は続く。
少しずつ、辺りが明るくなってきた。
プチッと嫌な音を立てて、弓が切れた。
弓毛が、天使の髪のように翻る。
邪魔だ。
俺は右手を持ち替え、弦をつま弾いて音を弾き飛ばす。
今ここに、天使の居場所はない。
ここは、俺の舞台なのだ。
俺は何も思い出せない。
しかし、断言できることが二つある。
一つ、男は悪魔に魂を売った。
二つ、男は悪魔の魂を打った。
悪魔さえ魅了した。
それ以外は分からない。
誰が男で、誰が悪魔かわからない。
―俺は誰だ?
―なぜここにいる?
―なぜこの曲を弾いている?
分からない。
分からないが。
そんなことはどうもいい。
俺は、演奏を止められない。
止めたくない。
誰にも邪魔されたくはない。
神にも、天使にも、悪魔にも。
何者にも邪魔されたくは無い。
この一曲のために、俺が在るんだ。
ちぎれた弓の毛をむしり取る。
それを空中に放り投げる。
観客から悲鳴が上がる。
ああ、心地いいな。
このまま弾いていたい。
弓を握り直して、ヴァイオリンを鳴らす。
いつまでも弾いていたいのに、無情にも曲はクライマックスを迎える。
狂気のような重音の連符が轟く。
音の波と指の隙間から、誰にも伝わらない叫びを漏らす。
公園は聞いている。
観客の悲鳴を。
木々のざわめきを。
風が草花を雑に撫でる音を。
全ての音を巻き込んで、
ヴァイオリンが断末魔をあげる。
──────そして、霧が晴れた。
霧が晴れた公園の中心には、誰もいなかった。
観客達だけがいる。観客たちは、どうして自分たちがここにいるのかわからないといった様子で、静かに去っていく。
いや。
一人だけ、いつまでもその場に立ち尽くす少年がいた。
頬を赤く染めて、興奮を隠しきれない様子の少年が一人。
『あの曲が弾いてみたい。』
『あんな風に弾いてみたい。』
そんな声が聞こえてきそうだ。
誰もあの男を覚えていない。
少年でさえ、覚えているのは曲だけだ。
霧が晴れた公園に遺されたのは一曲と、誰に向けているのかも分からない、少年の憧れだけだった。
それでも確かに、憧れは少年の魂に残った。
ニコロ・パガニーニ作
奇想曲Op1 第24番