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死は何ものでもない

「死は何ものでもない」
これは古代ギリシアの唯物論哲学者エピクロス(B.C. 342-271)の言葉である。

また,死はわれわれにとって何ものでもない,と考えることに慣れるべきである。というのは,善いものと悪いものはすべて感覚に属するが,死は感覚の欠如だからである。……死は,もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが,じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜかといえば,われわれが存するかぎり,死は現に存せず,死が現に存するときには,もはやわれわれは存しないからである。そこで,死は,生きているものにも,すでに死んだものにも,かかわりがない。なぜなら,生きているもののところには,死は現に存しないのであり,他方,死んだものはもはや存しないからである。

エピクロス『メノイケウス宛の手紙』——出隆=岩崎允胤(訳)『エピクロス—教説と手紙』(岩波書店,1959)67頁

このような死生観に関するエピクロスの論理は,非常に実証的・合理的であり,現代の我々の直感にも適合する考え方であるといえる。

私は,この考え方によって死への恐怖から少し解放された感がある。思うに死ぬことの恐怖とは,その多くの部分は,現在所有しているものを失うのが惜しいとか,親・恋人・子・友人との別れが惜しいとか,将来の自分のさらなる成長に到達できないとか,要するに,現在持っているもの,あるいは将来得られるであろうものへの執着なのではないか。もちろん,死の方法から来る恐怖もあり得るが,今回の主題ではないのでここでは無視する。

死の恐怖の原因がものへの執着だとするならば,それこそ我々にとって死は何ものでもなくなる。なぜなら,死が現に存するときには,もはや我々は存しないからである。このように考えると,死の方法の問題は別にして,少なくとも死ぬこと自体に対する恐怖は大分解消される。いつどこで死んだって,自分には関係のないことである。

しかしながら,この魅力的な考え方にも例外はある。
第一に,死の過程が漸進的な場合である。全身を病に侵され,病床に伏してゆっくりと死を待つといった状況では,死の恐怖が脳裏に焼き付くのに十分な時間がある。人生に後悔がある者にとって,漸進的な死の過程はある意味拷問である。
第二に,エピクロスは,一貫して一人称の死について論じているが,死は二人称でも三人称でも語られるものである。目の前の人が死ぬのはもちろん,世界の裏側の人間が死ぬことに対しても我々は時に心を痛める。
このような場合には,エピクロスの論理は妥当せず,我々にとって死は大問題として立ち上がってくる。

今回は,死生観についての考えをまとめてみた。
一人称で語られる死については,エピクロスの論理がかなり説得力があるように思う。しかし,二人称・三人称で語られる死については,一つの問題として立ち向かう必要があるだろう。

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