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【エッセイ】夜の底のない深み

夜の濃さ、というとき、私たちはそれを暗いか明るいかによって判断しようとする。そのときすでに私たちは光によって夜を照らそうとしている。

夜とは光の届かない場所のこと、けれどもそうやって言い表すことがすでに、光が届かないというかたちで、夜を光と結びつけている。

夜とは世界の影であり、この地球の回転とともに、私たちはそのもっとも深いところへと落ちていく。そしてその深みを、日毎に、一瞬にしてかすめすぎて、光のほうへのぼってくる。

夜はつねに夜以上のものだ。こうやって夜以上と言った途端にそれ以上のもので、夜以上の以上のもので、と、どこまでも膨れあがっていく、と言うことさえはみ出していく。

夜の深みは、けれども夜の底ではない。夜の底に、私たちがたどりつくことはない。たとえたどりついたとしても、そのことを誰も覚えていないだろう。なにより、その深みに着いた途端に、そこから離れていこうとするかのようなのだ。夜は記憶の光からはみ出す。

それは祈りに似ている。祈りはつねに、そこで祈られたことをはみ出している。あとになって、そこで祈られたと語られることは、絶対に祈りと一致しない。さらに言えば、祈られているその瞬間にあっても、そうなのだ。

夜は常に夜以前であり、夜以後であり、夜以前ではなく、夜以後でもない。それは、「今」に似ている。今はつねに今以前でありつつ、今以後でありつつ流れていく。

似ている、と言うこと自体が、結びつけられた二つ以上のものの肯定でありつつ、否定であることを忘れないこと。つねに、なにかをはみ出させていることを忘れないこと。夜が潜んでいるかのようであること。

たしかに、私たちは今この瞬間にも、ある回転の一部なのだ
私たちよりもずっと大きな回転と、ずっと小さな回転の
地球の回転、太陽系の回転、銀河系の回転、そしてその先へあるいは、細胞から分子、原子の回転へその先へ
それらのつらなりの隙間を満たしつづけながら、夜が見守っている

それぞれの回転のうちのどこかに、それぞれに、夜の深みに触れる時間がある
果てしなくさらされつづける回転もあれば、瞬時に遠ざかる回転もあり、
いずれにしても夜の底に近づくことなく深みをよぎり深みによぎられていく。

量子やさらなる細部へと至るとき、そこに回転はあるのだろうか
宇宙よりも膨大な広がりは、はたして回転を持つのだろうか
それらはあらゆる回転の二つの、いや数えられない果てであり、
そこには極小の夜が、極大の夜が、底なしに開けている


読んでくれて、ありがとう。

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