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余白の恐ろしさ

自分がどうやって咲けばいいかわからない、咲き方がわからない、どんな花が咲くのかわからない、こういった思いが、美しさと醜さのはじまりだった。

思考とは忘却することによって、よりきれいに、より美しく思い出そうとすること。美しさのあてもないまま。

なにかを醜く思い出すことはできない。どれだけ醜さを引き出しても、それは必要だから醜く描き出されたにすぎない。必要とされた醜さと美しさの区別を、つけることができない。

考えるためにどれだけ考えないことが必要とされるか。ひとつの思考を一本の矢のようにまっすぐ伸ばしていくために、その矢の勢いを維持するために、どれだけの無思考が必要か。

忘却を余白にして、思考を描き出す。一筆書きに見えるその描線は、実は忘却の隙間にできた暗い溝だった。

「そうあったかもしれない」を余白にして、描き出される「今こうある」……可能性に圧し潰された細い隙間で、私たちは息をしている。

忘却の余白が動いて、いつのまにか思考の姿が変わっている。「今こうある」も変わっていく、「そうあったかもしれない」の余白がうごめいて。

忘れてもいないものを、ためしに思い出そうとしてみる。つまり思い出したものを、もう一度さらに思い出そうとしてみる。この二つの思い出すことのあいだに、忘却の最小単位がある。呼吸と呼吸の隙間に、ほんの一瞬の無呼吸が忍び込むようなもの。

人間の本質というべきものに、あまりに深く食い入った者の名前は、忘れ去られる。彼彼女自身が人間に溶けてしまうから。その者の名前でその者を呼び出したところで、そこにあるのは残り滓でしかない。だとしたら、ある人間の、もっとも人間的な部分を引き出そうとするのは、その人を忘却させるためだ、と言えるかもしれない。

太陽は忘却の巨大な中心点だ。その光が起こす巨大な忘却が、世界をこうあらしめた。夜の星々もまた忘却がおびただしい小粒になったにすぎない。けれども夜はいつも夜以上のものだった。昼と対立させられる夜以上のものだった。

忘れ去られることによって生きつづけるものがある。「人間」という怪物は、いつもこの忘却を私たちに仕向ける。それは私たちに「人間」を思い出させるためであり、忘れさせつづけるためでもある。そうやって「人間」は生きながらえる。形を変えながら執念深く。


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