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【エッセイ】名前と物語

名前のまわりには忘却が起こる。ブラックホールみたいな強すぎる引力とか太陽のような強烈な光みたいに、たとえば、ダヴィンチという名前のまわりで起こる忘却。

そこまでの規模ではなくとも、私たちの名前の周囲でだって、似たような忘却が起こっているだろう。

自分の名前によって忘れ去られた私という影

そうやってひとつの名前が忘れさせたものは、その名前を辿らなければ辿り着けなく、思い出せなくなっている
つまり、そのひとつの名前は、それを忘れさせるだけでなく、思い出され方についても、自分の影響下に置く
けれどもこんなふうな影響関係ができた以上は、元あったものにたどり着くことはできないし、そもそもなにかがもともとあったと想定すること自体が、この影響下ではじめて可能になる

たとえば、一つの物語をつくるにしてもそこにあてはめる名前たちの端と端を、忘却によって溶かし、接ぎ合わせている
歴史という物語を私たちは覚えようとするけれど、その歴史の流れじたいは、いわば忘却によってつくられた滑らかさだ

物語を楽しむとは、ある忘却の肌理のあざやかさを楽しむことだ。

自分の言葉で説明できる、ということの判断基準は、うまく忘れているかどうかだろう。理解力があるとは、忘れ方がうまいということだ。

下手な忘れ方とはいったいどんなものなのか
そこではたぶん、名前と名前のあいだがうまく流れてくれていない
あなたはまだなにかを覚えている。あるいは忘れていない。それはもっと適した名前なのかもしれないし、その適した名前によって、忘れられなければならないものかもしれない
いずれにしても、そこにあてはめた言葉の隙間から、まだ語りかけてくるものがあるのだ。覚えてもいないが忘れてもいない響きがまだ聞こえているのだ

美しい忘れ方をたえず求める。だから何度も思い出とよばれるなにかを呼び出してくる。

友と昔を語り合うとき。二人は思い出そうとしているというより、協力してふたたび美しく忘れ直そうとしている。その忘却こそもっとも共有したいものなのだ。それを語らっているときの懐かしさもたしかにある。けれどもその語らいが終わったあと、その瞬間がふたたびかえっていくときの寂しさ。二人はたしかにあのときとは違う二人だ。けれども、それが美しく、たしかにあったという確信が強まってくるのはこの寂しさとともにあるときだろう。


読んでくれて、ありがとう。





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