エッセイ:世界はあった、かのように、うしなわれて
線より下は、本当のなかに嘘を、嘘のなかに本当を、まじえて書かれる。
以前、「感情移入」という言葉について記事を書いていたことがあった。それがどのページかはここでは書かない。プロフィールをさかのぼってもらえれば、デカデカ「感情移入」を題に含んだページが見つかると思うので、そちらをあたっていただければ。
それを書いている途中で、「感情移入」という言葉の文脈を無視して突貫していることにソワソワしてきたのだった。まちがいなく自分が知る以上の背景のある語だ。なのにそれを今自分の知る意味のなかだけに限定している。そのことについてなにか引っかかっているのに、知らないで通している状態が気持ちわるい。嘘をついているわけじゃないけど、気が咎める。
結局、もし自分の知る意味だけで「感情移入」を使うにしても、この語の背景を踏まえて、その上で、この限定を断っておけば気持ちも鎮まるだろうと思い、ちょっとグーグルをあたって資料検索してみた。するとどうやら19~20世紀初頭にこの語の由来が見出されるらしいことがわかった。次のように前置きを書いておいた。
「そういうわけで、問題の「感情移入」という言葉だけれど、これはもともと美学あるいは心理学の用語らしい。さかのぼれば19世紀末から20世紀初頭よりその使用が見られるようだ。」
付け焼刃でもぼんやりと知っている状態にしておけば、このムズムズもちょっとましになる。
その後、別の件のため別のウィンドウで開いていたChatGPTにふと尋ねたのだった。
わたし
「感情移入」という言葉の成り立ちと歴史について教えてください。
ChatGPT
「感情移入」という言葉は、ドイツの哲学者であるヨハン・ゴットフリート・ヘルダーによって初めて提唱されました。ヘルダーは18世紀の哲学者で、彼の著書『詩的意識の起源』(The Origin of the Work of Art)において、「Einfühlung(アインフューリング)」という概念を提案しました。この言葉は直訳すると「感情への共感」となります……
……等々。これを元に書き直して、
「そういうわけで、問題の「感情移入」という言葉だけれど、これはもともと美学あるいは心理学の用語らしい。さかのぼれば18世紀よりその使用が見られるようだ。ドイツ語の「Einfühlung」という言葉にあてるものとして、「感情移入」という訳語が登場したのだとか。」
裏付けをとろうとして検索をかけ、GPTによって出力され自分によって書き込まれた「18世紀」がデタラメと知ったのは、別件から戻ってきてからのことだった。時間にして半日ほど。
よくあることだ。GPTが提示してくる書籍は、2024年現在、基本的に疑ってかからないといけない。この『詩的意識の起源』にしてもそう。そんなものがあったためしのある18世紀は、調べたかぎり存在しない。「詩的意識」と「the Work of Art」という訳の対応もよく見ればおかしい。
タチが悪くて、あとになればややクスっとしてしまうのは、これがちょっと、いやむしろかなり真実を交えて語られていることだ。ヘルダーはドイツの詩人だし、『The Origin of the Work of Art』は哲学者ハイデガーの著作の英訳らしいし、それは『芸術作品の根源』という題で日本語訳が出ているはず。「Einfühlung」についても、これの訳として「感情移入」という語があてられたのはまちがいじゃないようだ。
嘘と本当のこの交え方自体、いかにももっともらしくて、怒るどころかほぉと思わず唸ってしまいそうになる。『詩的意識の起源』という題の翻訳作品は日本にはないのに、『The Origin of the Work of Art』という題の翻訳作品は英語圏にはあるとか、こういう世界そのものを股にかけた嘘はすごい。嘘の面白いつき方を教わってしまったような気にもなる。本当を羅列して、そのなかに致命の嘘をひとつ仕込む鮮やかさも、むしろ見習いたい。
とはいえ、ここで語りたいのはこういうことじゃないのだ。いやもしかすると今語ったこともちょっとは関係してくるかもしれない。いややっぱり無関係かもしれない。今ここを書いている人間が、ここから先を書かないうちから、関係あると深読みしているだけかもしれない。
それはGPTの吐いた情報がデタラメだと知ったとき訪れた。
戸惑いだと言ってしまえれば楽だ。けれどもどうも違うような気がする。偽りを認めたときになにか、寂しさのようなものが感じられたのだ。それはどこか、夢が覚めたときにふっとよぎっていく寂しさに似ていたように思える。
たしかに、夢のようなものかもしれないと思う。すくなくともGPTが18世紀を出力してから、それが確かめられるまでの半日、自分は夢の世界にいたようなものだろう。18世紀に『詩的意識の起源』という書物が出版された夢の世界に。
けれども、その寂しさは夢が覚めたときの寂しさとは、決定的に違っている。なぜならそれは、自分の身体が実際に過ごしたその時間に向けられているからだ。
この「なぜなら」が、この「寂しさ」に言葉を与えてくれる気がする。つまり自分は、あのデタラメの18世紀とつながりが断たれてしまったことに、寂しさを感じているのだ。デタラメと知るまでのあいだは、たしかにその世界は存在していた。その半日間、すくなくとも自分にとっては『詩的意識の起源』は実在していた。そこにはあり得たかもしれないもうひとつの世界があった。
その世界とのつながりが断ち切られて、それが幻になってしまってみると、たいして大切とも思っていなかったくせに、妙に恋しいということらしい。そんな世界があったこと認識もしていなかったのに。
だけど世界とは、もともとこんなふうに認識できないもののはずだろう。私たちは「世界」と自分のいる場所を名付けようとするけれど、その「世界」はいつだって私たちの前には姿をあらわさない。私たちが「世界」を知るのは、それとのつながりが断たれたところからだ。その外側に自己を置いてみないことには、「世界」について考えることはできない。
むしろ「そんな世界があったこと認識もしていなかった」ということが大事なのだ。
そこには「世界」とのつながりがあるとか、ないとか、そういった認識さえなかった。あの『詩的意識の起源』を信じるとか、信じないとか、それが本当とかデタラメとか、そういった疑いさえなかった。そこには特になにを考えるでもなくぼーっと半日を過ごす自分がいた。
そこへ戻ることはもう叶わない。
この寂しさは、ある世界とのつながりが断たれてしまった感覚ではないか。そしてその世界はおそらく、あらゆる「世界」がそうであるように、「つながりが断たれてしまった」という形でしか、認めることができない。
気になるのは、ここには懐かしさは混じっているのだろうかということだ。幼い頃を思い返すように、つい先日に過ごしたほんの半日のことを、人は懐かしむことができるのだろうか? この寂しさは幼少を懐かしむのと同じ感覚なのだろうか?
同じかはわからない。けれども似ている点もある。たとえば人があの頃に戻りたい、と考えるとき、私たちはもう戻れない過去のことを思い浮かべるだろうし、なぜそこに戻れないかと言うと、それは時間が経っている以上に、それもまたひとつの「つながりが断たれた世界」だからだろう。あの頃と同じ認識は絶対に戻ってこない。その意味であの頃の世界は戻ってこない。もし今の記憶を保ったまま、人生二周目が可能だとしてもそれは二周目にはならない。世界が違っているから。私たちの人生はどうしたって一回きりで、一度つながりを断たれた世界は戻ってこない。
一度つながりを断たれた世界は戻ってこないのだ。絶対に。同じ世界は二度とやってこない。
ふと思った。幼かったあの頃のように、あるいは『詩的意識の起源』(18世紀)を持った半日のように、この文章を書くことが起こっているこの世界も、去ってしまうのだろうか。まちがいなく行ってしまうだろう。私たちはこの世界を失って次の世界に行かなければならないだろう。そうだとしていつ訪れるのか。「そのとき」は?
世界の外に出れない、それが世界の条件のひとつである以上、どの世界のどの自分自身も、「そのとき」を知ることはない。私たちはすべてのつながりが断たれてから、「そのとき」があったことを知る。おそらく「そのとき」にはそれ自体と結びついた感覚もない。終わったあとの余韻しか私たちには感じとれないかのようだ。その余韻のようななにかを、今ここで寂しさと呼んでいるのだろう。