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【エッセイ】記憶の芯

そのとき、先生が自分に言った表情は思い出せる。その言葉も。だけどその顔ははっきりと思い出せない。

言葉がはっきりと響いてくるほど、表情がくっきりとしてきて、それにつれて、そこにあったはずの先生自身の顔がぼやけていく。あるいは、その記憶から無駄が削ぎ落されて、純粋になっていったのだろうか。

もしそうやってぼやけていくのが純化だとして、そうやって記憶が純粋になっていくほど、それを思い出す瞬間のどこかが、ますます汚らしくなっていくように思える。

どんな人の顔も、そのたったひとつの表情になかに溶けて消えていくようだ。あのうつむきがちの、こちらをまるで見ていないかのような、時間の奥を見通しているようなあの澄んだ表情に。

この記憶の表情だって、先生のものではないのかもしれない。あとから、記憶に付け加わって、先生の顔にすげ変わったのかもしれない。それとも、記憶が古びていくにつれあらわになってきた、「記憶の芯」のようなものなのか?

記憶の芯。私たちはばらばらにそれぞれのエピソードの断片を、記憶として持っているようでいて、その実、その芯の周囲に、顔や声や景色を、貼り付けているにすぎないのだとしたら。

なにかを記憶し、忘れていくから、その芯がほのめかされる。あるいは、その芯が生き延びるために、すべてが記憶され、忘れられていく。どちらも同じひとつの岩を、別の角度から見て説明しているようなものだ。

その芯を、その表情を、思い出すことができないから、いくつもの断片を寄せ集めて、そのいわば行間へと、その表情を呼び寄せようとしているのだ。ふとした記憶の綻びを通して、その表情が見つめてくる。記憶とは、その核心への呼びかけなのかもしれない。

どこでそれを見たのだろう?
ひょっとすると、それを見てなんていないのかもしれない
これから先のどこかで、見ることになるのかもしれない
おそらくそれは、いちばん古い記憶というのではない
それどころかもっとも新しい記憶でさえあり、さらにはその新しさも突き抜けた、未来の、いまだ記憶ではないなにかでさえあるのかもしれない

先生の顔の顔を溶かしていったあの表情は、だから誰のものでもなかった
動物のものでも、彫像のものでもなかった
それを表情と呼ぶことも、芯と呼ぶのと同じくらいに比喩でしかない
ではないと、否定することも比喩でしかない


読んでくれて、ありがとう。

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