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【エッセイ】幸せの式

幸せに浸り過ぎると、人間は頭がおかしくなる。

たとえば、この身体の神経の一本が断ち切られるだけでは、私たちはなにも感じないだろう
もっとおびただしい数の神経が使い物にならなくなって、はじめて人は何かを失ったことに気づく
だがそのときにはすでに、その人は気づいたよりももっと多くのものを喪失している

喪失とは何かの「かわりに」無を手に入れることだが、完全な無を手に入れることなんてできない
だとしたらそのときの私たちは、失ったものの「かわりに」何かを手にしたということなのだろうか。おそらくはそうなのだろう
けれどもそれが何なのかを知るための尺度を、そのときの私たちは持ち合わせていないのもたしかだ
そうだとすれば何も手に入れていないのとたいして変わらない。せめてこうは言えるかもしれない
つまり、なにかを失ったとき、私たちはべつのなにかを手に入れる可能性を手にしたのだと。「手に入れること」それ自体を手にしたのだと

幸せとはあらゆる可能性が無用になった状態のこと
幸せを嫌悪する人がもしいるなら、その人が嫌悪しているのは幸せそれ自体というよりも、むしろ可能性が無用になるという事態のほうだろう
私たち自身は生きながらえ、私たちの未来は死ぬ。そう考えているのだ

幸せは時間と対立する。永遠へとはせる想いは、この解決のない対立から出あらわれた。ときの流れと幸せとの戦いの痕跡をとどめていない思考なんてあるのだろうか。

私たちは幸せについて考えるとき、足し算で考えるのか引き算で考えるのか
おそらくはどちらも使って、なにかしらのゼロを思い描くのだ
人それぞれに異なるゼロだ。イコールの右にたどりつく式は無数にある
問題はこのイコールが実のところ隔絶をあらわしていることだ
その隔絶の仕方についても一様でない
イコールそれ自体さえ、あらゆる幸せの等式において一致しない

もしもあらゆる可能性を使い尽くしたとき、人は幸せを感じるだろうか。もうなにも手立てが、真実に一切なくなってしまったそのとき。可能性も、そのそばにある現実も、一緒くたに無用になるとき。幸せの等式がゼロイコールゼロを書き記すとき。

旅を終えるとき、人はついに、可能性の消尽に自分の幸せを見出すのかもしれない。つまりゼロイコールゼロに。けれどもこの隣り同士にされたゼロ同士でさえおそらくは違うゼロとゼロだ。

人間同士では、ゼロも違えば、イコールも違う。ひょっとすればプラスもマイナスも違うものかもしれない
同じ人間であっても、時間軸をずらしてみれば同じことが言えるだろう。あらゆる意味でばらばらなのだ
けれども、それでもなお、繋がりを感じる瞬間があるのは否定できない
そして、その繋がりの感覚は、ほとんど一瞬のことで、数えるほどしか感じたことがないのに、私たちはその繋がりを信じ焦がれてしまう
この感覚はたしかに幻だ。そのときのその人自身にしか感じられず、他の誰とも共有できないという点で、幻だ
だからこそ人はそれを信じたい、失いたくないと思うのだろうか
こんなふうな徹底して自分以外には信じられないものについてのみ、信念という言葉はあてはまるべきなのかもしれない

私たちは自分の死と一致できない。自分の生と一致できない。死からも生からも外れてしかしその外にいるわけでもない。生からも死からもずれたその場所でない場所の気配のことを、かろうじて時間と呼んでいる。


読んでくれて、ありがとう。



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