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人形遣いと人形と


Mは行動することをあまりに美しく思い描きすぎた。ただ見ていることが美しくなってしまうほど。その見ているだけを憎んでいたはずなのに。

Mは自分が憎んでいるもののなかに、自分のもっとも美しい部分と似たなにかがあることに気づかなかったのだ。

気づかないことそれ自体が生んだ美しさについて、昔Kがなにか言っていたっけ。「私は人形になりたいんだ」とKは言ったはずだ。じゃあ人形遣いが必要だねと言ってみると、Kは「その遣い手に気づかないでいたいんだ」と返した。

MとKはすこしも似ていなかった。自分のなかの、Mに呼応する部分、Kに呼応する部分は、まったく別の場所だった。二人が出会うことはなかった。

今、自分のなかで、二人を出会わせてみる。どちらも今の私の人形にすぎないけれど。二人は互いの顔を見合い、それだけで互いの心の内を知る。二人とも私の人形で、私はすべてを知っているから。気づいている。

そのとき、二人はお互いを憎んだりはしなかったはずだ。すべてを知っている私は、すべてに気づいているからこそ、そこにいなかった。私がいないそれだけで、二人が互いを憎まない理由になった。だが理解し合うこともなかった。Mは美しく目ざめていることを、Kは美しく眠っていることを望んだからだ。

出会いはその一度きり。そこから私が持ち帰ってきたものが、私を彼らと隔ててしまった。それは私が二人を出会わせる前から知りたがっていたものだ。けれども今もそれが何かわからない。その何かの、光を帯びた輪郭が言葉を弾く。

それを忘れたわけではない。その何かを感じつづけている。それは遠のいていくようでも近づいてくるようでもある熱を、この胸にむかって発しつづける。

私はそれを忘れつづけている、思い出しつづけている。

忘れること思い出すことが重なる場所。そこにすべてを置いてきてしまった。


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