映画『トラペジウム』 東ゆうの「なぜアイドルになりたいのか」について
はじめに
『トラペジウム』はわかる限りでは、かなり精巧に計算されている作品だと思う。演出の面でも些細な点まで入念だ。
たとえば、与えられる情報が、主人公、東ゆうの視点から得られるものにできるだけ絞られていること。そのためにかえって彼女は露悪的に描きだされることになる。けれどもその露悪的な描写の隙間を縫うように見る側で観察していくと、言い換えると、彼女のバイアスの向こう側をうかがってみようとすると、まったく別の人物像と物語が浮かび上がってくる。
このことを1度見ただけで判断するのは難しい。だから、何度も見ることになる。
けれども、そんななかで、物足りない点として真っ先に挙げられるのは、やはり東ゆうの「理由」の問題だろう。つまり、彼女は「なぜアイドルになりたいのか」。その動機が弱い、はっきりと描かれていないように見えるのだ。
たしかにその指摘には一理ある。ゆうが自分でシンジにむかって語る理由は、彼女のひたむきさのあらわれではある。けれども、アイドルが「光る」その瞬間を目にしたことだけを理由の支えにしているのは、いわゆる常識に則して感性を働かせると、なんとなくもうすこし確固としたものがそこにあって欲しいというような気にもなる。
そのような意見がある一方で、むしろこの理由の薄さに、ゆうの「狂気」や「執念」を見ようとする方向もあるだろう。つまり、こんな弱い理由だけで、常軌を逸した行動に出るその行動力、それ自体に彼女のアイドルへの偏執の深さ、さらにはそれゆえの彼女の才能と資質を読み取ろうとする。
これら二つの考えのどちらにも共通している部分がある。それは、言うまでもないことだけど、「東ゆうの理由についての描写が不十分だ」という考えだ。
この考えはたしかに間違ってはいない。だけど、完全に正しいとも言えない。というのも、この共通の根拠に寄りかかることで、見えなくなってしまっているものがあるように思えるのだ。じゃあ、その見えなくなっているものは何なのか。この文章はそれを考えようとしている。そして考察を通じて、東ゆうのアイドルになりたい理由の弱さについて、この2つの解釈とは別方向から光を当てたい。
この文章は「東ゆうの理由はちゃんと描かれている」と主張するつもりはない。前もって言っておくと、ゆうの理由は物語を通じて変化するように思えるのだ。つまり彼女の理由をちゃんと描いているというよりも、その理由の「変化」の過程を、この作品は描いているということ。
東ゆうの「理由」に欠けているもの
ひとまずは、その弱いとされる理由、それ自体を彼女の言動から探りだして、整理していこう。その理由とは自分がかつてテレビで眼にしたアイドルのように「光る」ことだ。
こうして見ると、ゆうの語る動機は、たしかに弱い。なによりも、夢が「アイドル」でなければならないならもっとも大切な理由が、ここには欠けているように思える。
それは何か。つまり誰かを笑顔にしたい、といった他者志向の理由だ。「アイドル」は他者との関係のなかで成り立つ仕事のはずだ。それも自分を見てくれている誰かとの関係によって。けれども、そのような自分を見る誰かについての考えが、東ゆうの「光りたい」という思いにはうかがえない。
もちろん、この欠如はそれ自体として責められるべきではないだろう。ゆうは十六歳の少女だ。自分のことで精いっぱいで、他者のことに気が回らないのもうなずける。けれども、それがいざ「アイドルになる」という現実の問題に臨むとき、この(幼さが原因ともいえる)他者志向の欠如は、「アイドルになる」ためには致命的なものとなる。
次に引用する破局の場面は、ゆうも含めた東西南北の四人で、ゆう自身の動機に、その穴に、引導を渡す瞬間でもある。彼女の他者にたいする思いの欠如は、ここではもう自分の周囲にまでその代償を強いるようになっている。そして「ファン1号」であるはずの美嘉の言葉によって、東ゆうにとっての「アイドルになる」こと、それ自体の意義が問われる。
「大勢の人たちを笑顔にできる」という言葉は、ここでは空疎だ。実際、これは苦し紛れの方便であって、心からの言葉ではない。今ある苦しさを正当化しようと、一般論を自分に言い聞かせようとしている節さえある。そして、その実質の伴わなさを、美嘉の、いちばん近くにいた「ファン」の言葉が暴露する。美嘉の言葉に、ゆうは答えることができないまま逃げ出す。他者にここまで彼女がちゃんと向き合ってこなかったことが、ここで明らかになる。
このことは、これ以前の伊丹にたいするぞんざいな態度などからも、前もって示唆されている。なによりこのことがあからさまになるのは、山積みになったファンレターのシーンだ。そこでゆうは、数えるほどしかない自分宛のファンレターから一通を拾い上げ、それに喜ぶどころかため息をつく。
このとき彼女は、自分が「光る」ためには、他の誰かが必要だという、アイドルという存在にとって当たり前の事実を見落としてしまっている。他者の存在が「光る」という理由のそばで二の次になっている。
こう見てくると、たしかに東ゆうの理由はたしかに「弱さ」を抱えているように見える。「アイドル」は他者との関係のなかで成立する。その認識を欠いている以上、そこには「アイドルでなければならない」という必然性が欠けているようにさえ思える。誰かを笑顔にすると口では言っても、この事実に彼女が向き合えていないことは、ファンレターのシーンからも、美嘉の言葉からもたしかだ。
だから、ゆうのアイドルになるための理由が弱いという点で、はじめにあげた二つの解釈はまちがっていないだろう。この「弱さ」は、東西南北が破局する場面になって、顕在化するのだ。
けれどもやはり、この破局の場面で、上記の二つの解釈は依然としてあることを見落としている。それはこの挫折を経て、東ゆうの「アイドルになる理由」、それ自体が更新されるということだ。
東ゆうの「理由」の深化
東西南北というグループの破局を転換点にして、物語の後半では、東ゆうがふたたびアイドルをめざすまでの再起に、物語の焦点が移る。そこで描かれるのは、まさに彼女がこの他者との関係を認め、それを糧に奮い立つまでの過程だ。それは、自分を応援してくれる他者の存在に気づき、そういった人たちの存在が理由の一部になっていく過程でもある。
最初の契機は、ボランティアの伊丹との対話だ。そこでゆうは伊丹にこれからどうするのかと問われる。ここでゆうは、はじめて自分の「これから」について考えはじめる。
次に、AD古賀からの電話。「これから」を見出せないゆうに、古賀は、自分はたくさんの楽しい経験をさせてもらったと礼を言う。ゆうはその言葉をうけて、頭を下げ、乗るはずだった電車に乗りそこなう。古賀に「楽しかった」と言ってもらえたことが、ここでは重要だ。これはゆうにとってはそれまで過ちだったはずの東西南北の日々を肯定してくれる言葉だし、またこの言葉こそ、自分が「光る」ために必要な他者との関係に気づくきっかけでもあるからだ。
そしてこのきっかけを経て、ゆうは「アイドルって光るんだ」という経験以前の自分にまでさかのぼろうとする。美嘉を訪ね、小学校のころの自分がどんな人間だったかを訊く。美嘉は当時のゆうのことを彼女に教え、ゆうにたいする自分の憧れを語る。
この言葉とともに、ゆうの瞳がきらりと輝く瞬間が、間近なショットで映される。自分を応援してくれる誰か=ファンの存在に、ここで彼女は気づく。瞳が輝く瞬間に彼女は、自分が「光る」ためには、自分ではない誰かが必要だという気づきを得たのではないか。
自分を応援してくれる誰かの存在は、続くラジオの場面でもゆうを元気づける。偶然流していたラジオで、サチのリクエストが流れる。そしてゆうは、そのリクエストによって流れる東西南北の曲「なりたいじぶん」を聞きながら、ゆうは吹っ切れたような表情で空を見上げる。サチに活力を与えていた自分に気づけたことそれ自体が、東ゆう自身が前を向こうとする力になる。
そして東西南北の面々との和解の場面で、ゆうは皆に応援される形で、ふたたび「アイドル」をめざそうとするのだ。
そう各々に、生きる力を与えてくれたことに感謝を言って、三人はゆうを見つめる。ここには美嘉の言う「応援」がたしかにある。ゆうは、彼女たちの応援をうけて、ふたたびアイドルになろうと奮い立つ。
ここでゆうが沈む夕日を背にして、他の三人と向き合うのは示唆的だ。夕日の光をバックに彼女は「光る」。
それは、応援してくれる誰かがいるからこそ、生まれてくる光なのだ。そして今、ゆうはそのことに気づいている。自分一人ではアイドルになれないことを知っている。ここでのゆうは、自分が勇気づけ、そして応援してくれる他者の存在に気づき、そのような誰かのためにも「アイドル」になろうとしている。
このように、彼女のアイドルになりたい理由は、経験を経て新たなものになる。
彼女のアイドルになりたい理由が一見弱く見えたとしても、理由そのものに起こったこの深化を踏まえたうえで、そうみなすべきなのだ。つまり、当初その理由が「弱い」のは、この物語そのものが、彼女が本当の意味でアイドルになりたい「理由」を見つけるまでの過程を描いているからだ。こう言ってよければ、この『トラペジウム』という物語自体が、(この後の)東ゆうがアイドルになりたいと思った理由の一部なのだ。
おわりに代えて 「理由」のできていく過程、そしてふたたび
『トラペジウム』は、夢をめざす理由が出来上がっていく過程そのものを描いた物語でもある。仮にそうだとしてそこからわかるのは、理由というのは、過去の特定のひとつの経験だけによって形作られるものではない、ということかもしれない。
なにかに打ち込んだり、夢をめざす理由。
それは、人生のなかの1エピソードによってだけではなく、もっと広い時間の幅のなかで、さまざまな経験を通して、すこしずつ形づくられていくというほうが、私たちの実感にも近いのではないだろうか。
『トラペジウム』は、そんな「理由」についての経験を描いているようにも思えるのだ。実際ゆうは、いくつもの挫折を経て、アイドルをめざす理由を新たにする。そして未来に向かっていこうとする。考えてみれば、OPの1シーンでしか描かれない「何度もオーディションに落選した」という経験も、そういったいくつもの断片のひとつとして思い浮かぶ。
けれどもここで得た結論は、ある意味問題含みなものになっている。どういうことか?
原作小説の、東西南北和解の場面を見てみよう。上で引用したのとまったく同じ場面だ。
ここになにがのぞいているのか。「既に」の2文字に注目しよう。小説版の東ゆうは、三人との和解の前に、すでに次のオーディションに応募している。映画版(あるいは角川つばさ文庫版)の東ゆうは、三人との和解ののちに、つまり三人からの「応援」によって、アイドルとして再起している。つまり、東ゆうの再起のタイミングが映画(ノベライズ)と原作で微妙に違っているのだ。
もちろん、小説版と映画(ノベライズ)には物語の流れにもけっこう違いがある。具体的には、伊丹や古賀、サチのラジオのシーンがカットされ、ゆうが「これから」について考えはじめるのが、学校の体育館で行われる進路説明会の場面になっている。とはいえ美嘉との対話があることは同じだ。そしてそこが、ゆうが応援してくれる誰かを意識する決定的なシーンであることも変わらない。
ここで重要なのは、どの時点で彼女が応募していたのか、ということだ。それによっては、このページの結論自体が問いに付されることになる。
まず考えられるのは、美嘉との対話のあとだ。だとしたら、「ファン1号」からの応援をうけて彼女は再起したということになる。これなら、この文章の結論はそれほど妨げられない。
けれどもしも仮に、東ゆうが次のオーディションに応募したのがそれよりも前だったとしたら。
東ゆうはなぜアイドルになりたいのか。その理由について問いをもう一度発さずにはいられない。やはりここにあるのは「執念」や「狂気」といったたぐいのものなのだろうか。
映画版は、現状(2024年7月20日現在)入手が難しいということもあり、映画について説明するさいには、角川つばさ文庫の『アニメ映画 トラペジウム』の文章を使用しています。角川つばさ文庫版は、いくつかの追加シーンや東ゆうの心理描写をのぞけば、台詞やストーリーが映画版とほぼ同一です。ですので、つばさ文庫版からの引用であっても、映画版を考えるにあたっては支障にならないはずです……多分。
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