【エッセイ】誰のためでもない代わりに
なにかを信じるというとき、それはいつも、誰かの代わりにだ。
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誰の、何の名においてでもなく、代わりに。
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それを信じきれなかった人の代わりなのか、信じなかった人の代わりなのか、疑った人の代わりなのか、憎んだ人の代わりなのか、そもそも信念も疑念も抱いたことのない誰かの代わりなのか。
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誰の代わりに信じているのかは永遠にわからない。私たちがいなくなっても、その信念が消え去っても、この謎だけは残りつづける。
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その誰かを忘れるほどに信じる感情は強まっていくかもしれないが、それだけそれは信じているはずのなにかからは離れていくのかもしれない。もし仮に、信じるということが、その誰かが信じているという状態の模倣だとするなら。
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信じるとは、ある種の場をつくることだろう。そこに誰もいない、空っぽで誰かを待ち続けている、そんな場をつくることだ。
迎え入れるための準備であって、祭りではない。
見たことも聞いたことも、これから見ることも聞くこともない誰かを、
祝福することであって、自分を祝福することでない。
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信念を持つことさえないもの、たとえば動物や木や石や水の代わりに、この体の細胞の代わりに、信じようとしてみる。
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「代わり」が「ために」とは重ならないで、「ために」を粉々にしてしまう。
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この体の代わりになんて誰もなれはしない。だから「ために」に、「代わりに」の代わりをさせている。忘れてはいけないことを忘れるべきことにする。
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その誰か何かは、いつどこにいるのか。この世界か別の世界か。過去か今か未来か。あらゆる可能性を、私たちはあらわそうとしてきた。あらわされたものとあらわそうとすることのあいだで、ずっと感じていた。
読んでくれて、ありがとう。