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【エッセイ】聖なる「傷」についての考察

聖痕と呼ばれる傷の中には、あまりにもそれが「ただの」傷でしかないようなものがある。

それは、「わたし」が負った傷というよりは、世界が負った傷で、つまり、他者が「わたし」の上に負った傷、とでも言うべきものだ。

その傷を聖化するとは、それを世界から「わたし」に引き寄せることを意味する
ある傷を「わたし」のものにしようとする絶えざる苦闘
どうしてこんなものが「わたし」のからだにあるのか。といって拒否しようとすることも、ひとつの聖化となる

徹底的に「わたし」のものでないのに「わたし」の上にある傷
世界が「わたし」に負わせるという仕方で、世界が負った傷

世界のある動きが、その身じろぎによって、「わたし」たちに負わせる傷というものがある。

その傷を、「わたし」の傷でなく世界の傷として眺めるとき、
傷はどれだけよそよそしく感じられることだろう
傷の痛みが極まって、全感覚が他人事のようによそよそしく感じられるあの瞬間、
そこには、この種のよそよそしさが絶えず潜む

傷の場所はこんなにもあきらかなのに、痛みの場所はいつもあいまいだ。この隔たりが、聖なるものの居場所になる。

傷の場所があいまいで、たいして痛みの場所が正確だという場合はありえるのだろうか?

鮮やかな傷はあらゆる痛みをそこに絡め取っていく。そうやって「わたし」は聖化され、世界も傷そのものも聖化される。

傷は世界と「わたし」の結び目になる
その傷はつねに開いていて、痛み続けて、
そうやって自分に言及しつづけることによって、「わたし」を世界を聖化しつづける

そうなる前の、痛みとも、「わたし」とも、結びついていない「ただの」傷が、あったはずなのだ。そこにただ、それが開いているだけというような傷が。


読んでくれて、ありがとう。

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