比較する
ニンゲンが、ものごとをかんがえるときに、ぐたいてきな方法・手段のひとつに、「ほかのそんざいと比較をして、くらべてみる」というものがある。
コレは、「思考の王道は比較である」というコトバにも、つながるかとおもわれる。
よく「たにんと比較してくらべると、しあわせになれない」というイミの指摘をミミにしたり、読んだりする。
だがしかし、コレはあくまでも、じぶんのキモチ・かちかん・感情にかんすることである。
そうではなくて、なにかのもくてき・課題のたっせい、もんだい・トラブル・モメごとのかいけつ、などなど、「シゴトなどで、ぐたいてきな対処方法・たいおう策・対策をかんがえなければならない」というときには、やはり、ほかのそんざいと比較をして、くらべなければならない。
なにせニンゲンは、ほかのそんざいと比較し、くらべるからこそ、その違い・差異がわかるのである。
よりぐたいてきにいえば、「ほかのそんざいと比較し、くらべるからこそ、両者の違い・差異というものが、目にみえるようになる」ということであろう。
そしてニンゲンは、目にみえないモノについては、ハッキリとにんしきし、はあくをすることができない。
たとえば、神やホトケ、霊魂というものは、目でみることができたい。そのために、「ホントウにいるのか、いないのか、いつまで経ってもわからず、ハッキリしない」かとおもわれる。
いいかたを変えれば、「そんざいしていると証明し、実証することができない」ともいえる。
ほかのそんざいと比較し、くらべるからこそ、違い・差異というものが、目にみえるカタチになる。
だからこそ、その違い・差異をほりさげて、しらべたり、かんがえ、検討することによって、もんだい点などに気がつくことができる。
たとえば、DVやネグレクトなど、ヒドイ家庭かんきょうでそだったコドモは、ソレが「あたりまえの状態」とおもいこんでしまう。つまり、「今げんざい、じぶんがワルイ状況におかれており、不運・不幸な状態である」ということ自体に、なかなか気がつかない。
だがしかし、ガッコウなどで知人・友人ができて、ほかの家庭を知ることによって、「どうも、我が家の状況はおかしい、もんだいがある」ということに、気がつくことができるかもしれない。
あるいは、はじめて就職したのがブラック企業であり、その一社しかしらなければ、「じぶんのろうどう状態・かんきょうが、れつあくであり、もんだいがある」ということ自体に、なかなか気がつかない。
だがしかし、ほかの企業・かいしゃの情報を知ることで、「どうも、じぶんのしょくばは、ブラック企業なのかもしれない」と、にんしきすることができそうである。
じぶんの個人的な感情・ないめん・キモチにかんすることである「幸福感」については、たしかに、イチイチたにんを比較をし、くらべていては、いつまで経っても、幸福感は上がらないかもしれない。
だがしかし、「もんだい・課題のかいけつ、もくてきのたっせいのために、ぐたいてきに、どうすればいいのか」というときに、つまり、なにかの対処方法・たいおう策・対策というものを、かんがえなければならないときは、やはり、「ほかのそんざいと比較し、くらべてみる」という行為が、とても重要・たいせつになりそうである。
というよりも、コレをおこなうことが、ひつよう不可欠になるのかもしれない。
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