ニンゲンが、ものごとをかんがえるときに、ぐたいてきな方法・手段のひとつに、「ほかのそんざいと比較をして、くらべてみる」というものがある。 コレは、「思考の王道は比較である」というコトバにも、つながるかとおもわれる。 よく「たにんと比較してくらべると、しあわせになれない」というイミの指摘をミミにしたり、読んだりする。 だがしかし、コレはあくまでも、じぶんのキモチ・かちかん・感情にかんすることである。 そうではなくて、なにかのもくてき・課題のたっせい、もんだい・トラブル・モメご
シゴトをし、はたらいているニンゲンの苦悩・なやみで、もっともおおいのが、ニンゲンかんけいにかんすることだ。という指摘を聞いたことがある。おそらくソレは、あたっているかとおもわれる。 なにせ、どれほど条件のよいシゴトであっても、そこにいるニンゲンが劣悪であり、ニンゲンかんけいがサイアクであれば、ほとんどのニンゲンは、精神状態を悪化させてしまうのだから。 ろこつにいってしまえば、給与がたかく、シゴトないようもカンタン・ラクなものであっても、上司・同僚・部下がサイアクであり、ヒド
あいてのことを、パッと見の見た目・外見ではんだん・評価をする。つまり、第一印象というものを重視する。 こういうことは、ダレでもやっているかとおもわれる。「リクツでアレコレと、あいてのことをかんがえるよりも、初対面の第一印象で、カン・直観ではんだん・評価をする」ということである。 そして、こういう「第一印象で、カン・直観ではんだん・評価をする」という方法は、意外とよくあたる。 たとえば、「初対面の第一印象で、どうにもイヤなかんじ、ワルイ印象をうけた」というタイプのニンゲンがい
ニンゲンを評価・はんだんするとき、パッと見の見た目・外見ではんだんし、評価をする。こういう行為は、一見すると、良くないことのようにおもえる。 たしかにニンゲンは、ながく付きあってみなければ、あいてのことを、深く知ることはできない。 だがしかし、ニンゲンのないめん性・ホンネ・感情・キモチ・性格・本質・本性などは、たしかに見た目・外見に、カナリのていど、表れるかとおもわれる。 あいてのことを、パッと見の見た目・外見ではんだんし、評価をするということは、ソレは、「じぶんのカン・直
どうやらニンゲンのないめん性・本性・本質・ニンゲン性・性格・ホンネ・感情・キモチなどは、見た目・外見にでてくるようである。とくにカオつきに。 むかしから、「目はクチほどのモノをいう」といわれるが、カオつき、とくに目には、そのニンゲンのホンネ・感情・キモチなどが、ろこつにでるようである。 まえに、「ヒトは見た目が9割」という本があったが、たしかにニンゲンは、見た目・外見に、ないめん性などがでるかとおもわれる。 ソレとはぎゃくに、「ヒトを見た目ではんだんするな」というイミのこと
じぶんの発言・言動、おこない・ふるまい・行動というものが、めぐりめぐって、やがては、じぶん自身にたいして跳ねかえってくる。 こういうルール・法則・原理原則というものが、ニンゲンしゃかい・世のなかには、どうやら、そんざいしているようである。 ということであれば、あたりまえのことではあるのだが、たにんにたいしてヒドイことをいったり、おこなったりすべきではない。 そういうことをおこなえば、「いずれは、じぶん自身が似たような目に遭う」というリスク・キケン性・可能性が、たかくなってし
じぶんの発言・言動、おこない・ふるまい・行動などが、めぐりめぐって、やがては、じぶん自身にたいして跳ねかえってくる。 こういう視点・発想・かんがえかた・スタンスというものは、俗にいう、「因果応報」、「自業自得」、「身からでたサビ」、「蒔いたタネは生えて、蒔かぬタネは生えぬ」というコトバによって、ひろくにんしきされ、りかいされているかとおもわれる。 そして、こういうことは、どうやらホントウのことかもしれない。 パナソニックの創業者である松下幸之助氏は、「運を上げるには、徳を積
むかしから、「自業自得」、「身からでたサビ」、「蒔いたタネは生えて、蒔かぬタネは生えぬ」など、「じぶんのかこの発言・言動、おこない・ふるまい・行動などが、めぐりめぐって、じぶん自身にたいして跳ねかえってきて、今げんざいのじぶんの状況・かんきょうをカタチづくり、つくりあげている」というイミのコトバがある。 おそらく、これらのコトバの背景・根っこ・基礎・前提条件には、仏教の「因果応報」という視点・発想・かんがえかた・スタンスが、あるかとおもわれる。 コレはたしかに、そのとおりか
ニンゲンにはダレでも、感情・キモチというものがある。そのために、どれほどアタマがよくて、優秀・有能なニンゲンであっても、その優秀さ・有能さだけでは、あいてにたいして、親しみ・親近感などをもつことはできないのかもしれない。 れきし上の偉人・じんぶつをみても、天才や秀才であり、すぐれたずのう・のうりょく・さいのう・知能をもっているのだが、おそらく、「たにん・部下などから、あまり親しまれなかっただろう」という印象を、もってしまうタイプのニンゲンがいる。 たとえば、センゴク時代のノ
あたりまえのことではあるのだが、ニンゲンには感情・キモチというものがある。どれほどアタマの回転がはやく、論理的なニンゲンであったとしても、感情・キモチがまったくないワケがない。 論理的な思考のうりょくとは、ずのう・アタマである。そのために、うまれもった知能がたかいニンゲンであるほど、論理的な思考のうりょくはたかく、すぐれている。 ソレにたいして感情・キモチというものは、アタマの良し悪しにかんけいなく、ダレでもかならずもっているはずである。 たとえば、「アタマの良いニンゲンほ
ニンゲンは、たとえ視界にはいったとしても、ソレについて意識していなければ、キオクにはのこらないらしい。 道をあるいていて、雑草・小石などは、何度も視界にはいっているはずだが、そのかず・カタチなどを、イチイチおぼえているニンゲンは、まずいないはずである。 どうやら、「ちしき・情報・じじつ」などについても、おなじことがいえるかとおもわれる。 つまり、なにかのもくてきの達成、もんだいの解決に役にたつような、ちしき・情報・じじつがあったとしても、その「もくてき・もんだい」について、
ユリウス・カエサルは、「ニンゲンは、じぶんがみたいとおもう、げんじつしかみない」というイミのことをいったらしい。 そして、そうである以上、「へんかしている、あたらしいげんじつのスガタ・カタチ・状態を、たにんにたいして、キチンとせつめい・せっとくをして、ただしいカタチでチャントりかいしてもらう」ということは、カナリむずかしいようである。 だからこそ、「いつまで経っても、げんじつのスガタ・カタチ・状態が、へんかしていることがわからない。へんかしたげんじつを、チャントみようとしな
塩野七生が書いた、「ローマ人の物語」のなかで、ユリウス・カエサルがいったとされるコトバがある。 ソレは、「ヒトはダレでも、げんじつがみえるワケではない。たいていのヒトは、じぶんがみたいとおもう、げんじつしかみない」というイミのコトバである。 今から2000年以上もむかしであり、かつ、ガイコク人のいったコトバであるが、コレはおそらく、今の時代においても、十分すぎるほど通用するコトバかとおもわれる。 たとえば、まったくおなじ情報・ちしき・じじつ・データを手にしているにもかかわら
むかしから、「悲運の天才」というコトバがある。コレは、たかいレベルであり、常人以上のずのう・のうりょく・さいのう・知能をもっている天才であるのだが、どうにも運がワルイ。 そのために、ミス・しっぱい・はいぼくし、さいごに失脚・ぼつらくし、ヒドイ目に遭ってしまうタイプのことを、いっているかとおもわれる。 こういうタイプのニンゲンは、あらゆるジャンル・ぶんやを問わず、むかしから、一定数はいるかとおもわれる。 ということであれば、どうやらニンゲンは、「運に勝つことはできない」という
ダレがいったコトバなのかはわすれたが、「ジケンが性格をつくるのではなくて、性格がジケンを呼ぶ」というモノがある。 フツウにかんがえてみれば、ニンゲンは、イロイロなできごと・ジケン・事象・現象をたいけんし、ソレによって教訓を得たりして、ないめんの性格・かちかん・ニンゲン性をつくりあげるはずである。 だから、「ジケンが性格をつくる」といえそうである。 だがしかし、たしかにニンゲンには、うまれながらにもっている、性格・かちかん・ニンゲン性がある。遺伝・血によって、それらをあるてい
司馬遼太郎は、「ニンゲンは、ニンゲンかんけいでせいりつしている。ニンゲンから、ニンゲンかんけいを取りのぞいたら、臓器のカタマリにすぎない」というイミのことを書いている。 コレはたしかに、そのとおりかとおもわれる。ニンゲンが、たんなる生物ではなくて、しゃかい的なそんざいとしての「ニンゲン」になるためには、どうしても、ニンゲンかんけいがそんざいし、かつ、ひつよう不可欠になるはずである。 とくに、しゃかいにたいして出ていって、シゴトをするようになると。さらにいえば、そしきのなかに