愛嬌

あたりまえのことではあるのだが、ニンゲンには感情・キモチというものがある。どれほどアタマの回転がはやく、論理的なニンゲンであったとしても、感情・キモチがまったくないワケがない。
論理的な思考のうりょくとは、ずのう・アタマである。そのために、うまれもった知能がたかいニンゲンであるほど、論理的な思考のうりょくはたかく、すぐれている。

ソレにたいして感情・キモチというものは、アタマの良し悪しにかんけいなく、ダレでもかならずもっているはずである。
たとえば、「アタマの良いニンゲンほど、感情・キモチがつよい」というワケではない。
つまり、ていどの差こそあれ、アタマの良い・ワルイにかんけいなく、ダレもが感情・キモチをもっているはずである。

そして、ニンゲンとニンゲンが会ったり、接したりするとき、そこにはかならず、ニンゲンかんけいが発生することになる。
とくに、しゃかいにたいして出ていって、シゴトをしてはたらくようになると、このニンゲンかんけいが、とても重要・たいせつになる。

どうやら、「ニンゲンが、ほかのニンゲンについて、どういう印象をもつのか」ということは、論理やリクツではなくて、感情・キモチによって左右され、影響をうけるようである。
コレは、「コイツはアタマが良くて、すぐれているのだが、どこか気にくわない。ムカつくヤツだ」ということにつながる。
そして、こういうタイプのニンゲンは、世のなか・しゃかい・せけんには、たくさんいるかとおもわれる。

むかしから、「才ある者には徳がなく、徳ある者には才がない」といわれているが、たしかに、「アタマは良くてすぐれているのであるが、ヒトがら・ニンゲン性・性格などに、おおきな欠陥・もんだい・欠落・難があり、きらわれており、人望がない」というタイプのニンゲンは、いたるところにそんざいしている。
アタマの良いニンゲンは、まわりのニンゲンがバカにみえてしまう。そのために、どうしても上から見て、見くだす傾向・とくちょう・性質があるからであろう。

そして、「ニンゲンが、たにんにたいして、どういう印象をもつのか」という点については、あいてのアタマの良し悪し、優劣ではなくて、キモチ・感情によって左右され、影響をうけるのである。
ということであれば、どれほどアタマが良くて、優秀・有能なニンゲンであっても、気をつけなければ、たくさんのニンゲンにきらわれたり、敵がふえてしまいかねない。
つまり、「ほかのニンゲンとのあいだで、ニンゲンかんけいが悪化して、シゴトがうまくすすまなかったり、じぶんの身がキケンに晒される」という状態をまねきかねない。

理想をいえば、「アタマが良くてすぐれており、その上さらに、人がら・ニンゲン性・性格も良い」という状態がのぞましい。
だがしかし、こういうカンペキなニンゲンというものは、ほとんどそんざいしていない。
先ほどにも述べたとおり、「才ある者には徳がない」のであり、「徳ある者には才がない」のである。
つまり、ヒトがら・ニンゲン性・性格が良いタイプとは、たいていのばあい、「あまりアタマが良くなく、シゴトができない」というニンゲンなのである。

そして、シゴトをすすめていくとき、どうしても、すぐれたニンゲンがひつようになるときがある。
なにごともなく、もんだいなく、スムーズにすすんでいるときは、フツウのニンゲンでも良いかもしれない。
だがしかし、むずかしい案件・もんだいが発生したときなどは、どうしても、アタマが良くてすぐれたニンゲンがひつようになる。
そのために、たとえヒトがら・ニンゲン性・性格などに、欠陥・欠落・もんだい・難ありであっても、アタマが良くて、すぐれたニンゲンがひつよう不可欠になる。

とはいっても、アタマが良くて、すぐれているニンゲンとは、十中八九、ほぼ100%の確率で、ヒトがら・ニンゲン性・性格などに、もんだい・欠陥・欠落・難がある。
そのために、ほかのニンゲンとのあいだで、ニンゲンかんけいを悪化させて、たくさんのもんだい・トラブル・モメごとをひきおこしてしまう。
そして、たくさんの敵をつくりだし、いずれは、じぶんでじぶんのクビを絞めるようにして、自滅・ハメツをしたり、失脚するハメになりやすい。

アタマが良くて、すぐれたニンゲンはひつよう不可欠であるのだが、ヒトがら・ニンゲン性・性格についても、無視することはできない。
だがしかし、これらを同時にそなえているようなカンペキなニンゲンなど、ほとんどそんざいしていない。
ということであれば、どこかで妥協点がひつようになってくる。ろこつにいってしまえば、「アタマが良くて、すぐれているニンゲンなのだが、ヒトがら・ニンゲン性・性格などに、もんだい・欠陥・欠落・難がある。だがしかし、それらは、まだゆるせる範囲内である」というカタチである。

こういうことを、ぐたいてきに指摘するとすれば、「愛嬌があるかどうか」ということになりそうである。
どうやらニンゲンは、あいてにたいして、愛嬌をかんじることができれば、あるていどの欠陥・欠落・欠点であっても、ゆるすことができるようである。
ちなみに司馬遼太郎は、愛嬌のことを、「愛すべき欠点」と表現している。ヒトがら・ニンゲン性・性格などに、もんだい・欠陥・欠落・難があっても、それらを「愛すべき欠点」にすることができれば、ニンゲンかんけいを、なんとか維持することができるのかもしれない。

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