しかたがない

パナソニックをつくった松下幸之助氏は、「不況もまたよし」だとか、「鳴かぬなら、それもまたよしホトトギス」といったらしい。
センゴク時代、天下統一のイッポ手前までいったノブナガは、本能寺の変において、「是非もなし」といったとされる。
小泉元首相は、「勝ってよし、負けてよし」といった。

この3人は、いずれも、カナリおおきな成功を収めたじんぶつである。それなのに3人とも、一種の諦観というか、あきらめというか、「しかたない」だとか、「なるようにしかならない」というイミのことをいっている。

3人とも、たにんからみたイメージとしては、「じぶんのチカラ・のうりょくで、じぶんのミライ・うんめい・じんせいを切りひらき、つくりあげた」というカタチにみえる。
だがしかし、3人とも、ココロの奥そこでは、「しかたない」だとか、「なるようにしかならない」とでもいうような、キモチ・感情をもっていたのかもしれない。

こういうスタンスのことを、俗に「うんめい論者」とでもいうのであろう。そしてコレは、「じぶんのミライ・じんせい・うんめいを、じぶんのチカラ・のうりょくで切りひらき、つくりあげていく」というスタンスではない。

それよりも、「まわりの状況・かんきょうに合わしていく。じぶんのチカラ・のうりょくで、ものごとを、じゆうにすることはできない」と、こういうスタンスかとおもわれる。

もちろんコレは、個人によって、程度の差があるはずである。
たとえば、「100%すべて、うんめいできめられている」というニンゲンもいれば、「10~20%くらいは、じぶんのチカラ・のうりょくで、じゆうにすることができる。だがしかし、のこりの80~90%は、うんめいできめられている」というニンゲンもいそうである。

こういう程度の差こそあれ、うんめい論者というタイプは、おそらく、「じぶんのチカラ・のうりょくで、じゆうにすることができるのはすくない」という点で、共通しているのかもしれない。
つまり、「じぶんのミライ・うんめい・じんせいは、そのほとんどが、じぶんのじゆうにはならない。ほとんどきめられている」という視点・発想・かんがえかた・スタンスを、もっているかとおもわれる。

こういう視点・発想・かんがえかた・スタンスというものは、一見すると、じぶんのミライ・うんめい・じんせいに、他動的・受け身であり、消極的にもみえる。
そのために、ひはん的になったり、良い印象・イメージをもたないニンゲンもおおそうである。

だがしかし、冒頭に挙げた3人は、フツウのいっぱん人よりも、はるかにおおきな成果・結果・実績を上げたニンゲンなのである。
そういうすぐれたニンゲンですら、「ココロの奥そこには、一種のうんめい論的な視点・発想・かんがえかた・スタンスをもっていた」という点は、とても興味ぶかい。

ということであれば、われわれいっぱん人が、「しかたがない。なるようにしかならない。じぶんのチカラ・のうりょくでは、コレはどうしようもない。どうにもならない」とかんがえて、一種のあきらめ・諦観のキモチ・感情をもって、「コレはうんめいだ」とおもってしまうのは、それこそ「しかたがない」といえそうである。

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