じぶんがみたい、げんじつのスガタ

塩野七生が書いた、「ローマ人の物語」のなかで、ユリウス・カエサルがいったとされるコトバがある。
ソレは、「ヒトはダレでも、げんじつがみえるワケではない。たいていのヒトは、じぶんがみたいとおもう、げんじつしかみない」というイミのコトバである。

今から2000年以上もむかしであり、かつ、ガイコク人のいったコトバであるが、コレはおそらく、今の時代においても、十分すぎるほど通用するコトバかとおもわれる。
たとえば、まったくおなじ情報・ちしき・じじつ・データを手にしているにもかかわらず、「ヒトによって、ぶんせき結果や、みちびきだす意見・けつろんに、おおきな違い・差異が発生する」というケースはおおい。

こういうことは、各々がもっているのであろう、思想・視点・かんがえかた・かちかん・性格・発想・スタンスであったり、各々のずのう・のうりょく・さいのう・知能のレベル・タイプであったり、あるいは、各々がかかえる事情・たちばなどが、おおきく起因し、かんけいしているかとおもわれる。
つまり、それらによって、各々がちがうカタチで、「じぶんがみたいとおもう、げんじつのスガタ・カタチ」というものを、アタマのなかに、もっているからかとおもわれる。

こういうとき、「あきらかにげんじつと違っており、もんだいのある意見・解釈をもっているニンゲンがいたときに、一体どうすればいいのか」ということが、ギモンとしてうかびあがってくる。
フツウにかんがえるのであれば、「あきらかにまちがっており、もんだいがあるのだから、そのヒトにたいして、ていねいに、わかりやすく、せつめい・せっとくをして、かんがえかた・意見を変える」ということがアタマにうかぶ。

だがしかし、コレこそがおそらく、おおきなまちがいの基である。こういう行為は、そもそもの前提として、「たにんの意見・かんがえを、じゆうに変えることができる」という視点・発想・かんがえかた・スタンスが、根っこ・土台・基礎・前提条件になっているかとおもわれる。
たしかに、一定のにんずうであれば、そういうことも、可能になるのかもしれない
ろこつにいってしまえば、「思想・かちかん・かんがえかた・視点・発想・性格、ずのう・のうりょく・さいのう・知能のレベル・タイプ、かかえる事情・たちばなどに、じぶんと共通点・類似点がおおい」というニンゲンであれば、ていねいに、わかりやすく、せつめい・せっとくをすることで、共感・なっとく・賛同を得て、味方にすることは可能かとおもわれる。

ところが、こういうタイプのニンゲンは、いつの時代・ばしょでも、けっしておおくはない。むしろ、かずがすくないはずである。
ほとんどのニンゲンは、じぶんとにあいだに、それらの共通点・類似点というものが、ほとんどないのだ。
つまり、どれほどていねいに、わかりやすく、せつめい・せっとくをしたところで、「あいての意見・かんがえを、コチラにつごうの良いカタチに変えてしまう」ということは、ほとんど不可能に近いといえる。

ニンゲンは、たにんを変えることはできない。と、よくいわれている。コレはたしかに、そのとおりかとおもわれる。
ということであれば、たにんにたいして、ていねいに、わかりやすく、せつめい・せっとくをしたとしても、ぜんいんの共感・なっとく・賛同を得てることは、まずできない。
つまり、ぜんいんの意見・かんがえを、コチラのつごうのよいカタチに変えることは、できないはずである。

まさに、ユリウス・カエサルがいったとおり、「ニンゲンは、じぶんがみたいとおもう、げんじつしかみない」というカタチになりそうである。
そして、たにんの意見・かんがえを、じぶんのつごうのよいカタチに変えることはできない以上、そのニンゲンは、「じぶんがみたいとおもっている、げんじつのスガタ・カタチ・状態を、ずっと見つづけることになる」というカタチになりそうである。

つまり、「じっさいのホントウのげんじつのスガタ・カタチ・状態を、いつまで経ってもみようとしない。むかしからのスガタ・カタチ・状態のままであると、ずっとおもいこむ」ということになる。
コレは、「へんかにたいして対処・たいおうし、適合することができない」という状態であるし、「むかしのユメを、いつまでも見つづけており、へんかした今のげんじつのスガタ・カタチ・状態が、まったくみえていない」ということでもある。

こういうニンゲンは、かならず一定数はいるかとおもわれる。だがしかし、ユリウス・カエサルのいったとおり、「じぶんがみたいとおもう、げんじつしかみない」というのが、ニンゲンのもっている性質・とくちょう・傾向である以上、しかたがないことなのかもしれない。

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