ゼッタイは、ゼッタイにない

ノブナガは、「ゼッタイは、ゼッタイにない」というイミのコトバをいったらしい。
ミライ予測がほとんど不可能なほどに、へんかのはげしいセンゴク時代・乱世を勝ちにぬいた、ノブナガらしいコトバといえそうである。

たしかに、へんかのはげしい時代・状況においては、ミライを予測することはできない。
もちろん、「いくつかのミライ予測を立てて、ソレがよくあたる」というタイプのニンゲンは、たしかにいるようである。
だがしかし、コレはたいして重要ではないであろう。

ちなみに、ピーター・F・ドラッカーは、「ミライ予測をするとき、予測したことが、どれだけあたるかは重要ではない。そうではなくて、予測すらしていないのに、起きてしまったことが重要だ」というイミのことを指摘している。

コレは、とてもたいせつな指摘かとおもわれる。たしかに、じぜんに予測したことよりも、「そもそも、まったく予測していないことがおきた」というケースのほうが、インパクトがつよそうである。

じぜんのだんかいで、まったく予測していないことがおきた。ということであれば、あたりまえのことではあるのだが、じぜんのだんかいで、対策案
というものを、まったく用意することができていない。
そのために、対処・たいおうが、後手後手にまわるはずである。効果的な対処・たいおう・対策というものが、できるワケがないであろう。

政治家・官僚、企業のトップなど、一定以上の地位・たちばのニンゲンが、とっぱつ的に発生した、前例のないキケン・もんだい・トラブル・モメごとにたいして、テキセツな対処・たいおう・対策がとれずに、後手後手にまわり、ひがい・そんがいを拡大してしまうケースをみていると、この「じぜんに予測をしていない、おきてしまったこと」ということが、たいせつ・重要であるというのは、しんじつかとおもえる。

どうやら、ノブナガがいったように、フダンから、「ゼッタイは、ゼッタイにない」という、視点・発想・かんがえかた・スタンスをもって、「今のあんてい・平穏な状態というものが、今後もずっとつづくことは、ゼッタイにない。どこかでかならず、予想外のジケン・できごと・へんか・事象・現象が起こる」と、心構えをしておくべきかもしれない。

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