カン違い
ユリウス・カエサルは、「ニンゲンは、じぶんがみたいとおもう、げんじつしかみない」というイミのことをいったらしい。
そして、そうである以上、「へんかしている、あたらしいげんじつのスガタ・カタチ・状態を、たにんにたいして、キチンとせつめい・せっとくをして、ただしいカタチでチャントりかいしてもらう」ということは、カナリむずかしいようである。
だからこそ、「いつまで経っても、げんじつのスガタ・カタチ・状態が、へんかしていることがわからない。へんかしたげんじつを、チャントみようとしない」というタイプのニンゲンは、かならず、一定数はそんざいしている。
そして、こういう状態にたいして、「あたらしい、へんかしたげんじつのスガタ・カタチ・状態を、チャントみようとしないニンゲンにたいして、失望・ゼツボウをしてしまう」というよりも、「あたらしい、へんかしたげんじつのスガタ・カタチ・状態を、キチンとをみようとしないのであれば、ソレをうまく利用してやろう」という視点・発想・かんがえかた・スタンスも、でてくるかとおもわれる。
どうやら、ユリウス・カエサルの後継者であったアウグストゥスは、こういうタイプであったようである。
つまり、「あたらしい、へんかしたげんじつのスガタ・カタチ・状態というものを、みたくない。みようとしないのであれば、みなければいいだろう。いつまでも、むかしのスガタ・カタチ・状態のままであると、勝手におもいこんでおけ」という、いわば、冷めた視点・発想・かんがえかた・スタンスのことである。
そして、こういうタイプのニンゲンは、冷徹なげんじつ主義者であるといえる。
さらにいえば、ジャンルを問わず、おおきなシゴト・事業を成しとげるタイプのニンゲンは、おおかれすくなかれ、こういう一面をもっているのかもしれない。
たしかに、「たにんの意見・かんがえを、変えることはできない」ということを、基礎・前提条件にするのであれば、「だったら、あいての意見・かんがえを変えようとせずに、ものごとをすすめるためには、一体どうすればいいのだろうか」ということが、アタマにうかぶかとおもわれる。
そういうときの答えのひとつが、「いつまでも、むかしのスガタ・カタチ・状態のままでいてほしい。変わってほしくない。と、たにんがおもっているのであれば、そのように、おもわせておけばいい。表面上は、むかしのままにしておいて、中身をガラリと変えてしまえ」という視点・発想・かんがえかた・スタンスである。
コレは、二ホンでいえば、朝廷をほろぼすことなく、幕府というカタチで世俗のけんりょくをにぎり、表面上・形式上は、律令制度を維持したまま、封建体制をつくりあげた源頼朝。
あるいは、足利幕府の再興を大義名分にかかげて、流浪していた足利義昭をつかい、上洛することによって、短期間で支配権・領土を拡大したノブナガ。
ノブナガの死後、一見すると、「ノブナガのコドモの後継者あらそい」というカタチをとりながらも、織田家の天下を乗っ取ってしまったヒデヨシ。
おなじく、ヒデヨシの死後に、トヨトミ家の家臣団のぶんれつ・あらそいに介入して、関ヶ原のたたかいで勝利し、トヨトミ家の天下を乗っ取ってしまったイエヤス。
などが、ぐたいてきな事例として、アタマにうかびそうである。
いずれも、さいしょのうちは、それまでの形式・タテマエをのこしているのであるが、ダンダンと中身を変えてしまい、実態・実権をにぎるようにしている。という点で、共通点・類似点があるかとおもわれる。
つまり、さいしょのうちは、「今までの状態・体制というものが、そのままのスガタ・カタチで、ずっとつづいている」と、たにんにたいして、おもいこませているといえる。
コレは、「たにんがみたいとおもう、今までどおりのげんじつのスガタ・カタチ・状態というものを、たにんにたいして、みせるように仕向けている」といえそうである。
どうやら、「たにんにたいして、へんかしたげんじつのスガタ・カタチ・状態というものを、キチンとみせようとする。そのために、どりょくをする」という視点・発想・かんがえかた・スタンスよりも、「げんじつのスガタ・カタチ・状態が、今までどおりのままである。と、そうおもいたいのであれば、勝手にそうおもわせておけばいい。カン違いしたいのであれば、勝手にカン違いしておけ」という、いわば、冷めた視点・発想・かんがえかた・スタンスのほうが、げんじつ的には、うまくいきやすいのかもしれない。
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