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「わたしは、なにものなのか」


『はじめまして、なっつんと言います! よろしくお願いします!
小学校の時に障がい福祉の支援者を目指して、今は知的障がいのある方のグループホームで支援者をしています!

でも、実は、20歳の時に発達障がいグレーゾーンの診断を受けて、支援者でもあり当事者でもあるんです。

当事者としての経験を支援に活かして、日々利用者さんの生活のお手伝いをさせていただいています!』

と、、、もし、発達障がい専門のカフェに行ったときには私はこう自己紹介するだろうし、実際のところ今月東京のNeccoカフェで似たような挨拶をした。


これを読んでいる皆さんは、どのように自己紹介をするのだろうか?

あるいは、自分自身をどのように知り・理解し・言葉にしているのだろうか?


私は、自己紹介をするとき、自分の得手不得手を人に話すとき「発達障がい」が頭をちらつく。

これは発達障がいの告知を受けてか10年近く経過し、障がい受容もかなり進んだ現在も同じだ。

だが、私は、なっつんという人間は、発達障がいとイコールではない。

実際は、、、

  • 男性である

  • 女性を恋人にしたいと思う

  • 湘南生まれ湘南育ちである

  • アニメが好きである

  • ゲームが好きである

  • 人を理解するのに役立つ知識が好きである

  • 人のためになる知識やスキルが好きである

  • 言葉が好きである

  • 運動は苦手である

  • 体を動かすことそのものは好きである

  • 人の感情を察して合わせることが苦手である

  • 人の言動を分析することが好きである

  • 何か1つのことを追求することが好きである

  • 掃除が苦手である

  • 真面目にやる勉強は嫌いである

  • 水族館が好きである

  • 動物園は嫌いではないが好きでもない

  • 自然が好きである

  • 夜景はきれいだと思うが嫌いである

  • 筋の通ったことが好きである

  • 理論的であることが好きである

  • 倫理的・道徳的であることが好きである

  • 人の役に立つことは好きである      などなど


発達障がいという言葉を使うことができるところもあるが、こうしてみると実際は、たとえ重要な部分であっても私を構成する要素の一部でしかないと気づく。

発達障がいの特性があって生まれてきて、嬉しいと思ったことは何もない。

しかし、発達障がいの告知をきかっけに「自分自身と深く向き合うことができた」ことは今の自分の宝であると強く思う。


皆さんは、自分の特徴や経験で自分自身に大きな影響を与えたものは何があるだろうか。

人間は、生まれもったもの と 生きてきたもので、できている。


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